戦国時代

2015年6月12日 (金)

争乱の戦国史209(終章): 戦国時代の終焉

 豊臣家との長期の争いに決着をつけ、諸法度を制定した事で幕府の基盤づくりを終えた徳川家康は、上方から駿府へ戻った。1616年正月、鷹狩りに出かけた家康は突然の腹痛に襲われ、以後病床に伏してしまう。かって「東海一の弓取り」と称された武人も75歳を迎えており、さすがに衰えは隠しきれなかった。
 3月太政大臣に昇任したが病は癒えず、4月17日、遂に帰らぬ人となる。
 豊臣家滅亡からわずか1年、稀代の英雄・徳川家康もこの世を去り、応仁の乱以来約150年続いた戦乱の世はようやく幕を閉じたのである

 1615年(元和元)に大坂夏の陣が集結して豊臣家が滅ぶと、元和偃武と呼ばれる平和な時代を迎えた。
 1616年(元和2)、家康が死去すると、翌年2代将軍徳川秀忠は大名、公家、寺社に領地の確認文書である領地宛行状(リョウチアテガウジョウ)を出し、土地所有者としての自らの地位を明示した。又、諸大名を親藩(徳川一門)、譜代(三河以来の家臣)、外様(関ヶ原の戦い前後に臣従した大名)に分類。謀反の危険性がある外様大名を東北や九州などに配置し、中央から遠ざけた。
209 続く3代将軍徳川家光は武家諸法度の改訂版・「寛永令」を発布し、参勤交代を制度化した。大名統制諸制度図示。
 又、秀忠から3代・家光の時代にかけて江戸幕府は多くの大名を改易(領地没収)・減封(領地削減)した。改易の主な者は、1619年福島政則(498,000石)。1622年本多正純(15万石)。同年最上義俊(57万石)。1632年加藤忠広(54万石)。1643年加藤明成(40万石)などである。その為、諸大名は泰平の世でも、お家騒動や、後継ぎ不在では御家が断絶することから、細心の注意を払い続けたのである。
 幕藩体制は、家康の死後も250年に亘り国内に安定をもたらした。この長い揺籃期があればこそ、日本は突然訪れた明治維新という近代化の波を受入れる事が出来たと言えるであろう。  [完]

謝辞: 今回を以て、2013年4月1日より始めた「争乱の戦国史」はこの209回を終章とし、終えることとします。2年余りにわたり、戦国史を綴ってきて、書き足りなかったことが多々ありますが、長期に亘りご愛読いただきました方々には厚く御礼申し上げます。しばらく休憩し、又別のテーマで相まみえられます様念じています。

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2015年6月 5日 (金)

争乱の戦国史208(江戸Ⅰ14): 大名統制の強化

 夏の陣での大坂城陥落1615年5月8日)を見届けた大御所・徳川家康は、即日京都二条城へ凱旋。将軍秀忠も翌日伏見城へ入った。凱旋後最初に打ち出された政策が閏6月13日一国一城令である。秀忠の年寄衆の連署奉書として「貴殿御分国中、居城をば残し置かれ、その外の城は破却あるべし」というもので、大名の居城以外の城は全て破却することが、秀忠の「上意」として申し渡され、秀忠への軍事面での権限委譲が勧められた事を意味した。又これは諸大名が二度と徳川家に叛旗を翻す事が無い様、その軍事力を奪い、新たな統治機構の構成員として組み込んだのである。
 更に、諸大名に帰国許可が出るのは7月18日であるから、全軍がまだ家康・秀忠の軍事指揮下の准戦闘状態に置かれたまま、個々の大名ごとに、将軍命令遵守が迫られた事になる。ことに一個一城令は西国大名の反応確認のための、武家諸法度の先行試験的な意味があった。
208 一国一城令から一ヶ月後の1615年7月7日、伏見城に諸大名が集められ秀忠付年寄・本多正信から、武家諸法度(元和令)の発布が伝えられた。これは全13条からなる大名統制のための基本法である。この時の法度は金地院相崇伝が起草し、築城や婚姻、参勤交代などに関する13条である崇伝起草の武家緒法度(金地院蔵)
 江戸幕府による統制は諸大名のみならず、朝廷や外国にも及んだ7月17日、幕府は二条城に公家を集め17条からなる「禁中並びに公家諸法度」を布告した。内容は天皇や公家の在り方を示したもので、朝廷が他の勢力と結びつき政治的な動きを規制するためのものであった。これは以降幕末まで改訂されず江戸期の幕府と朝廷の力関係はここに決定されたのである

 立て続けに発布された法度を始め、一連の幕府の政策は「元和偃武」と呼ばれる。偃武とは武具を納めることを意味し、1615年7月13日、後陽成天皇は年号を「元和」に改元したので、これを以て天下泰平の到来を意味する「元和偃武」といい、以降武器を用いない平和な世が続くという意味で使われた。が、諸大名や朝廷にとっては幕府による厳しい統制時代の幕開けに過ぎなかった。 

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2015年6月 1日 (月)

争乱の戦国史207(江戸Ⅰ13): 大坂夏の陣

 濠を埋め立てられてしまった大坂城は著しく防御能力を欠き、籠城戦は不可能であった。止む無く豊臣方は白を出て野戦を挑んだ
 1615年5月6日(慶長20)未明、後藤又兵衛は大和方面から奈良街道を通って襲来する敵を迎え撃つため、道明寺(現藤井寺市)付近に布陣同日早朝、援軍を待たずに伊達政宗・本多忠政・水野勝成らの軍勢と戦闘状態に入った。又兵衛の軍勢は2800余。対する徳川軍は2万を超え、数の上で一時、良く敵を圧倒したが、しょせん多勢に無勢。又兵衛は腰に銃弾を受けて討ち死にした。
 同日長宗我部盛親と木村重成は八尾・若江方面へ出撃し、藤堂高虎・伊井直孝の軍勢と衝突。藤堂軍に大打撃を与えるが、反撃を受けて敗走した。豊臣方の敗北はもはや時間の問題であった
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5月7日、大坂の陣は最終局面を迎える。豊臣方は大坂城の南部、天王寺及び岡山方面に戦力集中。徳川軍と決戦に臨んだ。茶臼山周辺に軍勢を配した豊臣方と、徳川の先頭にに位置する本多忠明が衝突したのが正午ごろ、豊臣方の軍勢は奮戦したものの組織的な兵の運用がままならず、次第に敗色が濃くなって行った
 豊臣方の大敗の中でただ一人
真田信繁(幸村)だけは気を吐き、味方が総崩れとなる中で茶臼山の家康本営に突入。家康の旗本部隊を大混乱に陥れた。一時は護衛も手薄となり。家康は自害を決意したほどだった。しかし、寸前で護衛が家康の元へ引返し真田勢を撃退。幸村は以後も奮戦したが、遂に力尽きて討ち死にした。

 この日の夕刻、豊臣秀頼夫人・千姫が脱出し、徳川軍に保護された。豊臣方の参謀・大野治長は家康の孫娘である千姫の命と引き換えに、秀頼の助命を実現しようとしたのである。
 しかし、、大坂城に対する攻撃の手は緩まず、城は焼失。翌5月8日秀頼と淀殿は遂に自害し大坂の陣は終りを告げた。8歳になる秀頼の子・国松は城を脱出するが、捕えられ5月23日斬首。栄華を極めた豊臣家の血脈は、わずか二代で途絶えたのである。かくして大坂の陣が終り、それは戦国の終わりとなったのである

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2015年5月27日 (水)

争乱の戦国史206(江戸Ⅰ12): 家康の罠

 大坂冬の陣は大坂城の外堀を埋めて、櫓を取り壊すことを条件に停戦した。そしてその工事は豊臣方が行う条件であったに拘わらず、これを無視して、1614年12月(慶長19)に講和が成立すると、徳川方は直ちに総構の濠の埋め立て工事を開始。続いて豊臣方との講和条件を無視しての三の丸、二の丸の濠も突貫工事で次々に埋め立ててしまった。この約束違反に豊臣方は当然強く抗議したが、徳川方はこれを無視して強引に埋立作業を続け、翌1615年1月(慶長20)には工事を完了してしまった。
 家康は初めから大坂城の濠をすべて埋めてしまい、その防御能力奪ったうえで一気に殲滅しようと考えていたのだ。家康の策略にまんまとはまった大坂方の浪人たちは激怒し、淀殿や大野治長の意向を無視して兵糧や武器弾薬を集め、再戦の準備を始めた。

 大阪城の戦争準備を知った康家3月、豊臣方に対し、「大和か伊勢への国替えに応じるか、城内浪人を追放するか、いずれかを選べ」要求した。
 浪人たちを抑えきれない豊臣方は駿府の家康の元へ使者を送り国替えの免除を願い出たが、家康は再戦を決意。駿府を発つと諸大名に出陣を命じ、名護屋城における第9子の義直の婚儀を終えて、4月18日京都・二条城へ入った。
 江戸の秀忠4月21日伏見城に到着し、総勢15万の軍勢で再び大坂城に迫った。
 家康24日になって「秀頼の大和郡山移封に応じるか、浪人を放逐するかせよ」最後通牒を突き付けたが、大坂城内集結した約10万人の浪人たちがこれを受入れる筈もなく、 豊臣方では最後になるかも知れない一戦を交える覚悟を決めた。これが豊臣家の存亡をかけた大坂夏の陣であり、その火蓋が切って落とされるのである。
 その前哨戦とも言うべき小競り合いは、既に4月下旬より行われており、下図の如4月28日、西軍が法隆寺周辺に放火。同日、西軍・後藤又兵衛(基次)らは郡山城を攻撃、更に4月28日、西軍は堺に放火。29日には和歌山城主・浅野長晟が樫井で西軍と称とちゅしている。
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2015年5月18日 (月)

争乱の戦国史204(江戸Ⅰ10): 東軍 大坂城包囲

 大阪城は本丸の他二の丸・三の丸を持ち、更に外側に総構と呼ばれる曲輪(クルワ)(外郭)が築かれた堅牢な城であった。大野治長らはこの城を活かす籠城戦を主張した。対し、真田信繁(幸村)や後藤基次ら実戦経験豊かな武将たちは、援軍の当てのない籠城戦など無意味と考え城外に打って出る様進言し、治長らと対立した。しかし、淀殿や秀頼が籠城に傾いていたので積極的な攻撃案は採用されず止む無く信繁は総構の東南隅に「真田丸」と呼ばれる出丸を構築し、陣取った
 真田丸は大阪城の中でも最も敵の攻撃を受けやすい場所であった。信繁は豊臣方に勝機はないと確信し、大坂城を死に場所と定めたのである。
204 一方、家康を総帥とする東軍は譜代の家臣を始め、豊臣大名から近世大名(徳川氏に臣従した大名)へと転化した武将まで総勢20万を味方につけ、10月1日諸大名に陣触を発した。10月11日駿府を発ち23日二条城に入った。但し豊臣恩顧の福島政則、黒田長政、加藤嘉明、平野長泰には江戸残留を命じた。大坂方に内通するのを警戒したと云われる。秀忠は東国大名に出陣を命じて、23日江戸を発ち11月10日伏見城に入った。家康は早くからこの時に備えてイギリス・オランダの商人にヨーロッパ製の大砲など購入していた。そして側近の豪商を通じ、弾丸用の鉛、火薬なども買い込んだ。兵糧も充分であった。
 これに対し大坂方は慌てて軍需物資調達にはしり、大坂方の蔵米や商人からの手当てで合わせ20万石備蓄した。又10月12日には大阪方は堺の町を襲撃武器弾薬を奪取して大坂城へ運び込んだ。これが大坂の陣の最初の戦闘だった。図:大坂冬の陣布陣図(蓬左文庫所蔵)。

 11月17日家康摂津住吉に着陣秀忠摂津平野に陣を敷いた。家康の発達した出陣命令に従い大坂には全国の大名の軍勢が続々と集結し、その数20万。かって関ヶ原では敵対した毛利や島津、上杉、佐竹といった外様大名らも徳川方に味方して大坂城の包囲網に加わったのである

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2015年5月10日 (日)

争乱の戦国史202(江戸Ⅰ08): 徳川幕府の体制強化

 政権強化のため、秀吉が朝廷に接近したのに対し、家康朝廷への圧迫を強めて行った。家康1609年(慶長14)後陽成天皇が女官たちを死罪にしようとした際、「流罪に留めるべき」として天皇の決定を覆えしてしまった
 幕府からの圧力を不快に思った後陽成天皇は、幕府に譲位の意を伝え、1611年3月27日(慶長16)、第3皇子政仁親王に譲位した。政仁親王は4月12日に即位礼を行い、後水尾天皇として即位した。後年、徳川秀忠の娘・和子(マサコ)がこの後水尾天皇の中宮になる。武家出身が中宮となるのは異例の事だが、朝廷との関係を深めたい幕府の強い要請で実現させた。

 家康は江戸の秀忠を将軍として立てつつ、大御所として秀忠を指導し、設立間もない幕府の権威を確立するために尽力していた。
 家康は「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次・榊原康政・伊井直正・本多忠勝ら古くからの側近を徐々に遠ざけ、優れた官僚タイプの人物を側近に迎え、幕府の体制作りを急いだ。中でも本多正信・正純父子を家康は自分の手元に置いて父・正信を江戸の秀忠につけ、駿府からの指示は彼らを通じて江戸に伝えられ、実行に移されていった。しかし、本多親子の発言力が増すにつれ、戦働きで家康に仕えてきた老臣たちの嫉妬を買い、家臣同士の権力闘争に発展する事もあった。

 本多親子以外にも、徳川幕府草創期には多くの優秀な人材が家康の周辺を固め、幕藩体制の整備に参与したのである。
202 臨済宗の僧・金地院崇伝は「伴天連追放令」や寺院法度など宗教政策に深く関与。天台宗の僧・南光院天海は家康・秀忠・家光三代に仕え、幕政にも大きな影響力を発揮した。又、儒者・林羅山は法度の整備や外交文書の起草に携わり、以降幕府の儒官は林家が独占した。左から天海・崇伝・羅山の画像
 1600年(慶長5)日本に漂着したイギリス人のウイリアムス・アダムスは家康に三浦按針という名を与えられ、外交や貿易の顧問的存在として活躍。又世界情勢や学問に関する基礎知識を家康に伝授する重要な役割を担っていました。同じ船で漂着したオランダ人ヤン・ヨーステンは日本を拠点に貿易を行い、貿易による財源確保を狙っていた家康のブレーンとして重用した。

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2015年5月 6日 (水)

争乱の戦国史201(江戸Ⅰ07): 支倉常長の欧州派遣

 関ヶ原で東軍につき戦功をあげた伊達政宗は家康の許しを得て、岩出山城から仙台に拠点を移し、城の建築に着手し、この仙台城(青葉城)は1610年にはほぼ完成した。
 1613年、徳川幕府体制も整い始めた頃、政宗は海外に目を向けた。天正遣欧使節以来の大掛かりな、支倉常長を中心とした欧州派遣団「慶長遣欧使節」の派遣である。乗組員は常長の他、伊達家臣11名、幕府舟手頭・向井将監の家臣10名の他、商人、乗組員などの日本人140名、宣教師ルイス・ソテロ、イスパニア使節セバスチャン・ビスカイノら南蛮人が40名他百余名である。
201 船には幕府から託された交易品をはじめ、多くの日本製品が満載されていた。一体、何を目的にして使節団が結成され、派遣されたのか。その目的と性格を浮かび上らせてくれるキリシタン信仰は一つの方便に過ぎなかった。伊達政宗は海外貿易に着目していたのである。スペインやローマとの通商条約の締結が最大の目的であった。

 洋上、およそ90日。凄まじい暴風雨に遭遇しながらも太平洋は乗り切り、メキシコのアカプルコに入港。メキシコからはスペイン艦隊の軍艦で大西洋を横断。スペインに到着後、セビリア、マドリードを経てローマに向かった。
 教皇との謁見を許され、政宗の書状を奉呈して帰国の途に就いたのであるが、仙台に到着するのは月の浦出港以来、7年後の事だった。政宗は幕府に常長帰着の報告した筈だが、詳細は定かでないという。
 常長は1622年7月(元和8)に病没し、ソテロは再来日したが捕縛され、火刑に処されている。彼が政宗の演出に踊らされて、イスパニアからローマを旅している間、日本国内では、幕府がキリスト教の勢いに、貿易上のメリットより、怖れを感じるようになり、キリスト教の禁止令を出していた故、政宗も幕府には逆らえなかった。そして国内ではキリシタン弾圧の嵐に見舞われていたのである。

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2015年5月 2日 (土)

争乱の戦国史200(江戸Ⅰ06): 幕府の挑発

 豊臣家1607年(慶長12)頃からしきりに寺社の修復事業を行ってきた。秀吉が1586年(天正14)に創建した京都・方広寺大仏殿の修復もその一つであった。そして秀頼と家康の会見も終わり、平和的な雰囲気が漂う中、1614年4月(慶長19)に梵鐘が完成8月3日大仏開眼供養が予定された。
 だが、豊臣家にとって大切なこの行事に、突如幕府側から横やりが入る。直前の7月南光坊天海が大仏供養の際、天台と真言のどちらが上席か、天台が上席でないと出仕しないと言い張った。又、真言宗派内でも東寺、高野山、醍醐寺のどこが上席かとの争いが起った。やっと収まると、家康開眼と堂供養を同日にするはよくない。堂供養は18日に変更せよと迫った。18日が秀吉の17回忌だから、3日実施すると伝えると更に難題を吹っかけたのである。
200 家康は、新たに鋳造した梵鐘に刻まれている鐘名の「国家安康」は家康の名を裂き家康を呪うものと主張し、又「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しめると読めると、常識では考えられない読み方で難題を吹っかけたのである。家康が問題にした方広寺の鐘

 慌てた豊臣側では、賤ヶ岳七本槍の一人で秀頼の後見役となっていた片桐且元を駿府の家康の元へ弁明に向かわせたが、家康は会おうともしなかった
 その上、家康は豊臣家が多くの浪人を雇い入れていることを強く非難、①大坂城を出て他国へ国替え、②淀殿の江戸在住、③秀頼の江戸在住のいずれかを選べと要求した。大坂方の強硬派は家康の態度に反発し、両者の対立は一触即発の事態となった
 家康は初めから喧嘩を売るつもりであったと言われる。この年2月頃から合戦準備を始めていたのは周知の事実で、知らないのは豊臣関係者だけであったとも言われる。家康はアダムスに鉛を調達させ、コックスからも新型大砲や火薬を買っている。この意味する所は明白であった。大砲の標的は一つ、大坂城天守閣にほかならない。大坂城決戦である。
 この時、大坂城の豊臣秀頼の元に駆けつけた者は、大野治長ら三兄弟、織田有楽・頼長父子、木村重成、薄田兼相、真田幸村、長宗我部盛親、大谷吉継の子盛次、増田盛次、後藤又兵衛、塙団右衛門などの主なき浪人衆だけであった

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2015年4月28日 (火)

争乱の戦国史199(江戸Ⅰ05): 二条城の会見

 1605年4月(慶長10)、家康は将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所と称した事は先述した。秀忠の将軍宣下式典は、家康の時とは様相を異にした。家康同様伏見城で行われたが、家康の時は外様大名は細川忠興、京極高次、池田輝政、福島政則の4人で、他は譜代と旗本衆だけであった。だが秀忠の時は、上洛の行列の先陣は伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、後陣に最上義光、佐竹義則、南部利直らの外様大名が加わり京都では島津家久、前田利常などが行列に加わった。
199 こうして徐々に豊臣家恩顧の大名が、徳川家に対する臣従関係に進んで来つつあった。そうして、後水尾天皇の即位礼の為、京都・二条城に滞在していた徳川家康は、1611年3月28日(慶長16)、豊臣秀頼と会見する。家康は秀頼を庭に出て迎え、客殿で対応した。秀頼は加藤清正、浅野幸長らかって秀吉側近に守られるように二条城に入り、家康の接待を受けた。秀吉の妻・高台院(北政所)もこの席に現れ、会見は和やかに終了。秀頼は何事もなく大阪城へと戻る。二条城。
 1605年(慶長10)に家康から上洛を求められたとき「無理強いするなら自害する」とまで言って反対した秀頼の母・淀殿も、加藤清正らの説得を受け、強いて上洛を止めることはなかった。何かにつけ幕府に逆らう態度を見せる豊臣家、中でも淀殿の言動は揺らぐ気配もなく、再び豊臣家が政権の座に返り咲く可能性は全くなかった。清正らは秀頼が幕府に楯つくことなく、穏便な形で豊臣家を守り続けて欲しいと考えていたのである。

 二条城での会見を無事終えたことで、豊臣家の立場は安泰かと思われた。しかし、この時、立派に成長した秀頼を前にして、老いた家康は胸騒ぎを感じ、将来に禍根を残してはいけないと決断したらしい。そして、わずか三年後、両者の決定的な対立へと突き進むのである。

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2015年4月23日 (木)

争乱の戦国史198(江戸Ⅰ04): 大名の貿易外交封鎖

 当初、徳川家康はその利益に着目し、積極的な貿易外交を行った1600年豊後に漂着したオランダ商船・リーフデ号の乗組員、ヤン・ヨーステン(耶揚子)とウイリアム・アダムス(三浦按針)を江戸に招き外交顧問にし、オランダ、イギリスの来航を許可。又長崎オランダ商館も開かせた。日本人の海外渡航も秀吉の政策を継承し、朱印船貿易を奨励し、東南アジヤ各地に日本人町も作られた。糸割符制度による京都・堺商人に輸入生糸の購入・販売、対馬の宗氏が李氏朝鮮と己酉約定による貿易も行われた。
198_2 しかし、欧州から入ってくる來るキリスト教への警戒感が次第に強まり、禁教と貿易制限策を採る様になって来た。又、幕府が西国大名豪商の動きを封じ込め、貿易を独占するもくてきもあった。東南アジヤの日本人町と朱印船航路
 
1609年10月(慶長14)、物々しい装備の供の者を従えた九鬼守隆(志摩)が持船に乗って幕府の舟手奉行・向井将監、舟手頭・小浜民部と共に淡路島・由良港に現れた。その目的は、徳川家康の命令に基づいて、西国大名が淡路島に回航した五百石積以上の大船を引き取ることに合った。大軍輸送に利用されることを懸念した処置と説明されたが、本当の狙いは別にあった
 つまり、大船の保有を禁止して、
朱印船貿易も事実上、禁止することに有った。はたして、1612年(慶長17)になってキリシタン禁止令が出ると寛永の鎖国令の断行を待つまでもなく、外交交渉の道を封鎖した。西国大名を軍事的、政治的に弱体化させるための手段であった。その為、1609年10月当初(慶長14)、蜂須賀至鎮(ヨシシゲ)と稲葉正勝の持船が特別の配慮で戻されたほかは、幕府に召上げられた。
 それによって直接、被害を被った
西国大名の多くは朱印船貿易から自然に手を引かざるを得なくなり。ここでも家康の一人天下となったのである。かくして鎖国の第一歩がそろそろ始まったのである

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