古代史、邪馬台国

2013年3月19日 (火)

倭国の興亡191: 終章・・・日本の誕生

 前回、「倭国の終焉」なる稿を記した。倭国と呼ばれる国が存在しなくなって、代って、日本と呼ばれる国が誕生したと認識できる時代の転換点が、この頃であろうと考えたからである。では何がどう転換したのか、転換の中身を記しておく必要があろう。これは全く私なりの見解であるが、以下の通りである。
1.国号の変化:倭国自身が中国や半島諸国に対し「日本」の国号を使い、相手からも日本と呼ばれるようになった。
2.天皇制の確立:神格を備えて、不改常典(恒久規範)の国家統治者である天皇制が確立した。併せ、律令制の完成。
 各項について若干解説する。
国号日本という国号は、大王が天皇と呼ばれ始めた天武朝の頃(672年)、日は日神即ち天照大神の子孫である「日の皇子」の統治する国という意味で定められたといわれる。
 尤も、日本の国号が最初に対外的に使われたのは、702年出発の遣唐使が日本からの遣使と名乗ったのが初めてという。ところが天平勝宝年間(750年頃)でも国内では倭(ヤマト)と呼ぶのが圧倒的で、同音好字で「和」の字が併用され始め、次第に「和」が主流となった。これに「日本」を充てて「ヤマト」と呼んでいたが、平安時代になって「ニッポン」という読みが定着したという。
 因みに、中国史書に初めて出たのは『旧唐書』で「日本国は倭国の別種なり(日本伝)」とあり、日本国は倭人であるが倭国とは別と書いている。
 即ち中国は(人)は種族名であり、日本は王朝名であると理解していたようだが、それが正鵠を射ている理解だと思う。

天皇号:天皇(スメラミコト)は、以前の大王(オオキミ)が地方豪族を媒介した間接支配であったに対し、諸豪族を一官僚の地位に置いて全国一元支配を始めたのである。それは7世紀後半(天智・天武朝以降)であろう。王権の継承も兄弟継承から父子継承へ、そして譲位制への変化が王権強化を推進めた。
 そして、律令制度の深化により、より日本的な律令制を完成させ、平城京から平安京への遷都、即ち天武朝から天智系統の桓武朝に変わるまでの間、古代天皇制から脱却し、新しい天皇制へと変化してゆく中で、日本特有の王権である天皇制が確立され、神格を持つ天皇への変化が完了したのである。
 以上簡略に過ぎるが、真の意味での古代国家・倭国が、中世の日本に変貌を遂げたのは、桓武天皇の平安時代からであり、その直前の平城京の消滅で倭国も消滅した。長岡京はそのクッションであった。

 以上を以て「倭国の興亡」を終了いたします。長きに亘りご高覧頂きまして有難うございました。いずれ又、新シリーズを掲載予定ですので、ご期待ください。     

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2013年3月15日 (金)

倭国の興亡190:新王朝の成立・・・倭国の終焉

 769年5月称徳呪詛事件が起きる。聖武の娘・不破内親王は安積親王や井上内親王(白壁王妃)の同母妹であり、称徳の異母妹(系図参照)である。その不破内親王が、称徳の女官・県犬養姉女に称徳を呪詛させ、自分の子・氷上志計志麻呂の天皇擁立を図ったというものだ。結果、京外追放、配流などに処された。しかし、後にこれは誣告(ブコク)であると判り、不破内親王は元に復している。但し、782年もう一人の子・氷上川継の謀反事件に連座し淡路に配流された。これらは、道鏡即位の障害にとなる皇位継承候補者・志計志麻呂を狙って、母共々排除しようとした事件だった。(図は聖武と桓武の関係系図)
190  770年称徳3月に倒れ8月4日、平城宮西宮寝殿で死去。この頃既に道鏡はその政治的地位を失っていた。議政官たちは即日、贋の遺詔により、白壁王を立太子し、道鏡を下野薬師寺別当に左遷、弟浄人も土佐に配流し、一気に政治体制立て直しを図った
 10月には白壁王が即位し、光仁天皇となり、初めて天武を始祖としない天皇が出現した。これは聖武の娘・井上内親王を妻とし、又既に他子(オサベ)親王が生まれており、聖武の血が維持されるからであった。
 しかし、771年2月温厚な左大臣藤原永手の急死により、再び政変が起こる。772年皇后井上内親王が光仁を呪詛したとして廃され5月には他戸親王が皇太子の地位を追われる772年10月光仁の姉・難波内親王の死去にかこつけて、井上・他戸母子が呪詛したとして幽閉され、775年4月同日死去した。

 変わって773年立体子したのは他戸の兄・山部親王である。母は渡来人の血を引く高野新笠で、出自・経歴共に異例中の異例だった。この筋書きは藤原良継・百川兄弟の作と言われ、良継の娘・乙牟漏は山部の妃となり、平城・嵯峨両天皇を生む。
 781年山部は病気の光仁から譲位を受け、桓武天皇として即位する。桓武は二大政策として「造都」「征夷」を掲げた。こうして平城京の奈良時代は終った
 7世紀以来構築してきた律令国家の諸システムが円滑な機能を果たし始め、日本型律令制を築き上げる過程に入った。原始以来の「倭国」の終焉である。そしてそれは新しいシステムの日本国の誕生であった

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2013年3月11日 (月)

倭国の興亡189: 蝦夷の乱

 道鏡が配流(770年)されてより10年ほど時代が下る頃、平穏であった東北地方にも争乱が始まる。当時、岩手県・胆沢(イサワ)は蝦夷の地であった。そこからはるか南(旧築館町)に伊治(コレハル)という倭国の軍事施設があった。780年蝦夷の伊治呰麻呂が内輪揉めから、そこの紀広純(鎮守将軍兼陸奥守)を殺害し、軍を率いて南下、東北支配の軍事拠点・多賀城に攻め込み、軍事機能を破壊し、灰燼に帰した。
  結果、多賀城以北は蝦夷の略奪破壊に任され、倭国防衛線は一挙に多賀城以南へと後退し、蝦夷対倭国の対決となった。
 政府は直ちに征討軍を派遣する。780年3月中納言・藤原継縄(征討大使)と阿倍家麻呂(鎮荻将軍)に統一戦線を組ませたが、対峙したまま2ケ月が過ぎた。
 蝦夷軍の動きは活発になったが、政府軍は動かず翌781年6月戦闘終了の報告が来た。軍は8月に帰還し、副使・大伴益立は冠位剥奪された。

 その後政権交代などで若干間を置き、782年中納言・大伴家持に陸奥按察使と鎮守将軍を兼任させ、回復した多賀城に兵糧、兵器など集め始めた。788年参議・紀古左美が征討大使に任命され、789年3月古左美の征討軍が多賀城に入った。5万人の兵は堂々と胆沢をめざし、衣川に達したころ、賊軍に遭遇したが抵抗もなく思わず深追いした。しかし、これが敵の計略だった。
 潜んでいた蝦夷軍に、政府軍は包囲された。この指揮を執ったのが阿弖流為(アテルイ)だった。4000人の政府軍は蝦夷の騎馬隊に蹂躪され陣形はかき乱され、我先に逃げたが、多くが溺死した(渡河部隊の82%が戦死傷者)。
189  そして791年、征夷大使に大伴弟麻呂、副使に坂上田村麻呂が起用され、十分な下準備をして794年正月に大使が、6月に副使・田村麻呂が合わせて10万の大軍を率いて出立した。797年坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され、戦いの詳細は不明だが、同年9月には「夷賊を討伏した」の報告がある。(蝦夷軍砦の遺構
 802年正月には胆沢城が築かれ始め、4月には阿弖流為が投降し、戦いはほぼ終結し、翌年志波城も築かれて監視体制が完成し、25年に及んだ蝦夷・倭国戦争はここに終結した。田村麻呂の蝦夷への懐柔作戦が功を奏したと云われる。

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2013年3月 7日 (木)

倭国の興亡188: 最後の女帝と法王道鏡

 淳仁を廃帝した孝謙は自ら重祚(復位)として振舞い、通称称徳天皇と呼ばれた。
 765年、前年の兵乱に引き続き、飢饉が各地で起こり米価は暴騰した。この8月兵部卿和気王の謀反事件が起きた。舎人親王の孫の和気王は一旦臣籍に降ったが、叔父淳仁の即位で皇親に戻ったが、自身の即位と称徳・道鏡の死を祈願する願文を書きつけていたとして、絞殺されたものである。
 称徳は10月13日から閏10月初めまで、固関(関封鎖)をかけて淡路に行幸した。この行幸は二つの目的があった。一つは淡路幽閉中の大炊親王の復位を封じること、もう一つは銅鏡の太政大臣禅師任官である。称徳が淡路到着後、大炊親王は脱走に失敗し死んだが、この行幸は大炊親王に死を賜うのが目的の行幸だったと云われている。皇位継承資格者(和気王と大炊親王)の死を受けて、称徳は心おきなく皇親外の道鏡を太政大臣禅師に任じた。そして11月、重祚を宣言する大嘗祭を挙行した。そして、766年10月道鏡を法王とした。天皇に匹敵する地位であり、称徳天皇ー道鏡法王の二頭体制を構築したのである。
188  称徳ー道鏡政権の仏教安定策に二つの大事業が行われた。一つは西大寺行幸と尼寺西隆寺の造営766年)であり、も一つは百万搭の造立事業であり、770年に完成し諸寺に分置された(は現存の法隆寺百万搭)。
 尚、日本で3番目の銭貨「神功開宝」を発行したが、大幅な物価上昇対策と共に押勝からの決別表明と受取れる。

 769年頃道鏡絶頂期であり、後はいかにして天皇となるかというまでになった。この時、大宰府の神官・習宜阿曽麻呂が「道鏡を天皇にしたら天下は太平になると宇佐八幡が言っている」と道鏡に触込んだ。これを真に受けた道鏡は早速称徳に報告し、称徳は和気清麻呂に「託宣を下したとの八幡神のお告げがあった」といって宇佐八幡に赴かせた
 ところが、清麻呂が伝えた宇佐八幡の託宣は、称徳と道鏡の期待に反するもので、「我が国始まってい以来、君臣の秩序は定まっている。皇位には必ず天皇家の血筋を引く者をたてよ」と託宣し、道鏡排除の助力を約束したという。当然称徳と道鏡は託宣が捏造だと決めつけ清麻呂を左遷した。しかし、翌10月の旬政(シュンノマツリゴト)で、称徳は諸臣に言い訳をし、自戒の意を表した。これが有名な「宇佐八幡宮託宣事件」である。

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2013年3月 3日 (日)

倭国の興亡187: 恵美押勝の乱

 謀反人となった押勝は、764年9月11日夜、外印(太政官印)を持って近江国に向かった。近江は藤原氏が代々国司を務めた政治的基盤の地であり領国のようなもので、押勝自身近江守だった。且つ美濃も越前も押勝の子が国司だったので、近江国府を前線基地とし、越前・美濃両国で兵を徴発し平城京を奪還する計画だった。それで、夜押一行は宇治を通って近江国に入った。
187  しかし、いずれも瀬田川を渡らねばならない。ところが軍略の天才吉備真備が孝謙の軍参謀に起用されており、既に彼により押勝の戦略は先読みされ、瀬田橋は焼き落とされたのである。(吉備真備
 結果、押勝は琵琶湖西岸を北上する外なく、12日夜は近江国高島郡に留まって、先ず越前入りすることと、朝敵と言われないために新たに天皇を立てようと決めた。しかしその間、吉備真備は近江国府を佐伯伊多智軍に落とさせ、その一部の軍が越前国を急襲し、押勝の子・越前守辛加知を殺害していた。
187_2  それを知らず、13日朝、押勝一行は道祖王の兄・氷上塩焼を天皇とし、太政官印を用いて布告し、高島郡を発った。そして越前・愛発関攻略を図ったが、既に孝謙側の物部広成に占領されていた。やむなく琵琶湖横断を試みたが逆風に押し戻され、高島郡に引返し戦闘を繰り広げたが決着がつかなかった。(押勝進軍路
 そこへ孝謙方の援軍・藤原蔵下麻呂軍が現れ、形勢は押勝が一挙に不利となり湖上に遁れた。そして最後の決戦に敗れ、鬼江に浮かぶ船上にて石村石楯(イワレノイワタテ)という武官に斬られ、59歳の生涯を閉じた

 孝謙に押勝の死の報が届いたのは14日、かって左遷された押勝の兄・藤原豊成が右大臣に復活した。又、20日には道鏡を大臣禅師に任じている。
 尚、10月9日には孝謙は淳仁天皇を廃し、大炊親王として淡路に流し幽閉した。

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2013年2月27日 (水)

倭国の興亡186: 皇権分裂と押勝の挫折

 762年5月、保良宮未完成のまま、淳仁天皇と孝謙太上天皇は平城遷都した。淳仁は押勝に準備された中宮院(内裏)に戻ったものの、孝謙は平城宮に入らず、母光明子ゆかりの法華寺に入り、住まいとした。6月、孝謙は5位以上の官人を朝堂に呼び、「今の帝は、私に身に覚えのないことをいう。別に住めば云われないだろう。向後政務については日常祭祀など小事は今の帝が行い、賞罰など国家の大事は私が行う」との詔を出した。皇権の分離宣言である。
 淳仁は孝謙に遠慮深く振る舞い、対立は考えられないが、特定の事を婉曲に非難したことを指している。それは宮中の看病禅師・弓削(ユゲ)連道鏡に関することで、761年保良宮に行幸してから、時折孝謙の看病に侍り、次第に寵愛されるようになった。これに対し押勝からも言われて淳仁が事あるごとに孝謙に苦言を呈したことから、二人が不仲になったと云われ、前記皇権分離となった由。(:孝謙女帝)
 天皇大権を象徴する鈴印は淳仁にあり、律令制の正当手続きは押勝・淳仁側にあるものの、一触即発の状態が続いた。(鈴印(レイイン):駅馬利用資格証明の駅鈴内印(天皇御璽)及び外印(太政官印のこと)
186  一方恵美押勝専制に対する反発は既に頂点に達し、763年には藤原宿奈麻呂等による押勝暗殺が企てられたが、これも密告により未然に防がれ、首謀者等は大宰府に左遷された。763年から翌年にかけ、孝謙側も造東大寺司長官に吉備真備が、小僧都に道鏡が任じられた。対して押勝側も、衛府の軍隊長官や関国守に身内子弟や子飼いを充て、軍事力強化を図った。又、軍粮確保のため諸国の不動倉の管理を中央の管理下に移した。
 768年8月には近畿諸国に造地使が派遣され、灌漑用池の掘削準備をさせたが、これは兵力徴発の準備であった。又9月に大師(太政大臣)押勝は都督兵事使となり、畿内要衝の軍政を掌握した。そして、淳仁の兄・船親王と謀って、孝謙の咎を書面告発する準備を進めた。軍事力を背景に孝謙失脚の画策であり、軍事クーデターの準備だった。
 この動きは孝謙側に漏れ、淳仁から鈴印を奪われ、鈴印争奪の戦闘が始まった。場所は法華寺と中宮院の間で宮内道路近傍である。戦闘結果、鈴印が孝謙に届けられ、押勝は謀反のレッテルを貼られた。大師を解任、位階を剥奪され、土地、資財すべて没収され、藤原姓も除く処分が下された。

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2013年2月23日 (土)

倭国の興亡185: 東北版図拡大と新羅征討計画

185  藤原恵美押勝による東北経営は陸奥国・桃生城、出羽国・雄勝城に代表される。両城造営方針は757年の勅に在り、760年1月の両城完成に褒賞された。他にこの頃、出羽柵は秋田城に造りかえられ、多賀城も大規模な改作があった。これらを一括主導したのは押勝・朝狩親子で、これを顕彰するため、762年多賀城碑が造立された。
 これら東北経営の強化策は一応成功し、東北情勢の安定38年戦争に突入する774年まで続く。
  一方この頃、押勝政権は新羅征討を計画していた。その頃の対新羅関係は、752年の大仏開眼会の際、王子・金泰廉の来日はあったが、朝貢を求める日本と対等外交を求める駆け引きでしっくりしてない。
185_3   しかし、これ以降の新羅使は貿易使節としての性格を持ち、大宰府における大規模な貿易活動が生まれている。正倉院の「買新羅物解」という文書に当時の購入された新羅の物品や値段のリストがある。しかし、760年来日の新羅使は身分が低いと追い返している。(下図:当時もたらされた正倉院蔵、平螺鈿鏡)。
 押勝は対新羅強硬策を打ち出すため、先ず758年遣渤海大使・小野寺守を派遣し、同年帰国した。その時の情報で、唐の案禄山の乱勃発を知る。755年異民族出身の安禄山が玄宗皇帝に反旗を翻したものであったが、押勝政権は全て大宰府任せであった。当時大弐・吉備真備という碩学が大宰府にいたせいもある。又、この危機感を逆手にとって積極外交に転じ、政権安定に利用した節もある。
 新羅征討計画は759年に、3年後に500隻の船築造する計画。761年美濃・武蔵の少年20人ずつに新羅語を習得させ、東海・南海・西海道に節度使設置762年筑前・香椎廟ほか全国の神社に戦勝祈願の奉幣。しかし、結局新羅出兵はされず、762年の渤海使のもたらした情報は、安禄山の乱の終末と玄宗の死であった。
 こうして、唐国内の情勢変化や、渤海と唐との関係から、渤海の日本との連携も不要となり、これら東アジアの情勢変化は、新羅征討を正当化する理由を失わせた

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2013年2月19日 (火)

倭国の興亡183: 橘奈良麻呂の乱

 聖武が没した時、「遺詔」の形で孝謙天皇の後嗣を新田部親王の子・道祖(フナド)に決定した。(令では天皇の皇子、兄弟を『親王』、親王の子を『王』と呼ぶ)。しかし、その後1年経たない757年3月には道祖王の言動よからず廃された。そこで、4月4日、孝謙は群臣に図り、仲麻呂の意見を聞いたうえで、新田部親王の弟・舎人親王の一番若い大炊王が悪い風評もなくよいと思うと重臣たちに諮られ、大炊王を皇太子に決定した。この会議の筋書きは仲麻呂と孝謙の間で予め用意されていたものだった。
 皇太子交替から間もない757年5月、聖武の一周忌斎会の終了を待っていたかのように大きな政変が始まる。聖武なき後、叔母である光明皇太后をバックに発言力を強める藤原仲麻呂を討つべく、757年7月に起こった橘奈良麻呂の変である。
 政治体制も、皇位継続も藤原一族即ち不比等の娘・光明皇太后とその娘・孝謙上皇が実権を握り、その家政機関である紫微中台が行政機関の中枢となりその長官に藤原仲麻呂が就任していた。皇室と行政機関をすべて掌握していた訳で、すべてを私していると憤激したのが橘奈良麻呂であった。
183  以前より、奈良麻呂は打倒藤原を何かと画策してきたが、この時にいたって怒りの頂点に至った。7月2日打ち合わせ通り、黄文王、安宿王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、小野東人を中心とした精兵400人で田村台を囲み、古麻呂が不破の関を掌握すべく兵を挙げた
 一方、仲麻呂たちは不穏な動きを察知しており、6月には戒厳令を敷いており、6月末には密告があって、事前に陰謀は発覚した。7月2日、孝謙が自生せよとの詔を出したが応じず。翌3日、仲麻呂に密告があり、孝謙に奏上。即刻小野東人を拘禁し、道祖王邸を包囲。その後前記の主な謀反人を呼び出し拘束説諭した。しかし、4日事態は急転し、厳しい取り調べが行われ、拷問を受けて前記首謀者は杖下で獄死、他の主だったものは佐渡や土佐への流罪に処された。総数443人に達したそうである。(:光明子の親譲りの持念仏
 奈良麻呂クーデター未遂事件後、一気に進んだ仲麻呂専制支配体制の総仕上げが、大炊王の即位(淳仁天皇)である。

〔お詫び〕
前回、この183回を飛ばし、184回を先にアップロードしております。後先、逆順になっております事、お詫び申し上げます

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2013年2月15日 (金)

倭国の興亡184: 淳仁即位と仲麻呂の栄光

 758年8月、孝謙は皇太子大炊王に譲位、大極殿で即位し淳仁天皇が誕生した。同日、孝謙に「宝字称徳孝謙皇帝」、光明に「天平応真仁正皇太后」の尊号を贈った。更には役所名を中国風に改めて、藤原仲麻呂には功績にふさわしい名を諮問し、藤原恵美朝臣押勝の名が与えられ(以降仲麻呂押勝と表記)、鑑真には「大和上」の称号を贈っている。(下図鑑真坐像
184  一方、押勝には、本来律令国家の権限である功封・功田とともに鑄銭(造貨)と出挙(銭貨や稲の貸付)の権利を与えるという異例の措置が取られ、恵実家の私印使用も許可している。

 押勝の専制体制の総仕上げの時期、淳仁新天皇の位置づけは非常に低い。淳仁の名は明治での追贈であり、のち天皇を廃され淡路に流され「(淡路)廃帝」と呼ばれ、日々の記録でも単に「帝」とされた。
 傀儡という程の淳仁即位に対し、押勝は自ら大保に任じ、760年には大師となり。大宝以来初の大政大臣任官となった。しかも孝謙太上天皇の勅による。
184_4  この時期、押勝政権は二つの特徴的な経済策を採った。一つは760年、新銭の万年通宝を和銅開珎以来52年ぶりに発行した。この通貨1枚は和同開珎10枚に相当するとされたが、次第に同等となった。下落した銭貨価値の回復と贋金対策だった。(写真左が万年通宝、右は金貨・開基勝宝)
 もう一つは、759年平準署と常平倉の設置である。常平倉は諸国の非常用備蓄稲(公廨(クゲ))の一部を割いて京に置き、物価高騰時に放出する物価安定策と運脚の疲弊を救う制度で、平準署はその統括中央官庁である。

 押勝はまた保良宮の造営を行ったことが発掘調査で確認された。大津市国分付近に、759年造営開始をし、761年に遷都を断行しており、南の平城京に対し、北京と呼ばれた。造営は平城宮の内裏修理中の天皇の仮住まいという目的があったが、光明死去や奈良麻呂事件で工事が遅れた為、実際には旧藤原京に在った小治田宮が当面の仮住まいとなった。

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2013年2月11日 (月)

倭国の興亡182: 藤原仲麻呂の台頭と聖武の死

182_0048  仏教伝来以来、最も盛大な法会・大仏開眼供養会が終了した752年以来、孝謙天皇は藤原仲麻呂の邸宅・田村第に帰り、ここを「御在所」遺跡が出土)とした。この時の議政官は左大臣・橘諸兄、右大臣・藤原豊成、大納言・巨勢奈弖麻呂(ナテマロ)、大納言・藤原仲麻呂、中納言・紀麻呂と多治比広足の構成であり、内平城京留守居に任じられた紀・巨勢・多治比を除くと、諸兄、豊成、仲麻呂だけであり、開眼供養会の実質的主導者は仲麻呂であった。
 孝謙が平城宮に戻らなかったのは、東の大極殿や朝堂院の掘立柱から中国風の礎石建物へ大改造中に伴って内裏の改造中であったからでもある。
 この頃、750年遣唐使として大使・藤原清河、副使大伴古麻呂が、また751年には副使・吉備真備が任命されたが、753年帰路、蘇州を出奔した3船とも台風に遇い沖縄に漂着。更に奄美をめざしたものの第1船はベトナムに漂着し、第4船は火災で遅れ、第2船が屋久島経由で薩摩に、第3船が紀伊に漂着した。この時、第2船に乗船していた鑑真が5度の失敗に懲りず、6度目にやっと密航同然で来日を果たした。
181_2  このように、遣唐使派遣、大仏開眼、平城宮中枢部の改造を果たした天平勝宝年間(749~757年)は、藤原仲麻呂の権勢が最も安定した時期であった。(左図田村第発掘遺跡

 754年、聖武の生母・太皇太后宮子が死去し、その頃より聖武の体調が崩れた。あちこちの神宮や御陵で、聖武の延命が祈願され、橘諸兄がうっかり聖武没後のことを口にし、密告されて、翌756年左大臣を辞した
 同年2月、病床の聖武は光明・孝謙と共に難波行幸に出て往路6ヶ寺に詣で、難波宮には1ヶ月半滞在した。難波宮により帰って2週間余り後の756年5月聖武太上天皇は56歳で没した

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