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2015年6月 5日 (金)

争乱の戦国史208(江戸Ⅰ14): 大名統制の強化

 夏の陣での大坂城陥落1615年5月8日)を見届けた大御所・徳川家康は、即日京都二条城へ凱旋。将軍秀忠も翌日伏見城へ入った。凱旋後最初に打ち出された政策が閏6月13日一国一城令である。秀忠の年寄衆の連署奉書として「貴殿御分国中、居城をば残し置かれ、その外の城は破却あるべし」というもので、大名の居城以外の城は全て破却することが、秀忠の「上意」として申し渡され、秀忠への軍事面での権限委譲が勧められた事を意味した。又これは諸大名が二度と徳川家に叛旗を翻す事が無い様、その軍事力を奪い、新たな統治機構の構成員として組み込んだのである。
 更に、諸大名に帰国許可が出るのは7月18日であるから、全軍がまだ家康・秀忠の軍事指揮下の准戦闘状態に置かれたまま、個々の大名ごとに、将軍命令遵守が迫られた事になる。ことに一個一城令は西国大名の反応確認のための、武家諸法度の先行試験的な意味があった。
208 一国一城令から一ヶ月後の1615年7月7日、伏見城に諸大名が集められ秀忠付年寄・本多正信から、武家諸法度(元和令)の発布が伝えられた。これは全13条からなる大名統制のための基本法である。この時の法度は金地院相崇伝が起草し、築城や婚姻、参勤交代などに関する13条である崇伝起草の武家緒法度(金地院蔵)
 江戸幕府による統制は諸大名のみならず、朝廷や外国にも及んだ7月17日、幕府は二条城に公家を集め17条からなる「禁中並びに公家諸法度」を布告した。内容は天皇や公家の在り方を示したもので、朝廷が他の勢力と結びつき政治的な動きを規制するためのものであった。これは以降幕末まで改訂されず江戸期の幕府と朝廷の力関係はここに決定されたのである

 立て続けに発布された法度を始め、一連の幕府の政策は「元和偃武」と呼ばれる。偃武とは武具を納めることを意味し、1615年7月13日、後陽成天皇は年号を「元和」に改元したので、これを以て天下泰平の到来を意味する「元和偃武」といい、以降武器を用いない平和な世が続くという意味で使われた。が、諸大名や朝廷にとっては幕府による厳しい統制時代の幕開けに過ぎなかった。 

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