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2015年5月27日 (水)

争乱の戦国史206(江戸Ⅰ12): 家康の罠

 大坂冬の陣は大坂城の外堀を埋めて、櫓を取り壊すことを条件に停戦した。そしてその工事は豊臣方が行う条件であったに拘わらず、これを無視して、1614年12月(慶長19)に講和が成立すると、徳川方は直ちに総構の濠の埋め立て工事を開始。続いて豊臣方との講和条件を無視しての三の丸、二の丸の濠も突貫工事で次々に埋め立ててしまった。この約束違反に豊臣方は当然強く抗議したが、徳川方はこれを無視して強引に埋立作業を続け、翌1615年1月(慶長20)には工事を完了してしまった。
 家康は初めから大坂城の濠をすべて埋めてしまい、その防御能力奪ったうえで一気に殲滅しようと考えていたのだ。家康の策略にまんまとはまった大坂方の浪人たちは激怒し、淀殿や大野治長の意向を無視して兵糧や武器弾薬を集め、再戦の準備を始めた。

 大阪城の戦争準備を知った康家3月、豊臣方に対し、「大和か伊勢への国替えに応じるか、城内浪人を追放するか、いずれかを選べ」要求した。
 浪人たちを抑えきれない豊臣方は駿府の家康の元へ使者を送り国替えの免除を願い出たが、家康は再戦を決意。駿府を発つと諸大名に出陣を命じ、名護屋城における第9子の義直の婚儀を終えて、4月18日京都・二条城へ入った。
 江戸の秀忠4月21日伏見城に到着し、総勢15万の軍勢で再び大坂城に迫った。
 家康24日になって「秀頼の大和郡山移封に応じるか、浪人を放逐するかせよ」最後通牒を突き付けたが、大坂城内集結した約10万人の浪人たちがこれを受入れる筈もなく、 豊臣方では最後になるかも知れない一戦を交える覚悟を決めた。これが豊臣家の存亡をかけた大坂夏の陣であり、その火蓋が切って落とされるのである。
 その前哨戦とも言うべき小競り合いは、既に4月下旬より行われており、下図の如4月28日、西軍が法隆寺周辺に放火。同日、西軍・後藤又兵衛(基次)らは郡山城を攻撃、更に4月28日、西軍は堺に放火。29日には和歌山城主・浅野長晟が樫井で西軍と称とちゅしている。
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