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2015年5月18日 (月)

争乱の戦国史204(江戸Ⅰ10): 東軍 大坂城包囲

 大阪城は本丸の他二の丸・三の丸を持ち、更に外側に総構と呼ばれる曲輪(クルワ)(外郭)が築かれた堅牢な城であった。大野治長らはこの城を活かす籠城戦を主張した。対し、真田信繁(幸村)や後藤基次ら実戦経験豊かな武将たちは、援軍の当てのない籠城戦など無意味と考え城外に打って出る様進言し、治長らと対立した。しかし、淀殿や秀頼が籠城に傾いていたので積極的な攻撃案は採用されず止む無く信繁は総構の東南隅に「真田丸」と呼ばれる出丸を構築し、陣取った
 真田丸は大阪城の中でも最も敵の攻撃を受けやすい場所であった。信繁は豊臣方に勝機はないと確信し、大坂城を死に場所と定めたのである。
204 一方、家康を総帥とする東軍は譜代の家臣を始め、豊臣大名から近世大名(徳川氏に臣従した大名)へと転化した武将まで総勢20万を味方につけ、10月1日諸大名に陣触を発した。10月11日駿府を発ち23日二条城に入った。但し豊臣恩顧の福島政則、黒田長政、加藤嘉明、平野長泰には江戸残留を命じた。大坂方に内通するのを警戒したと云われる。秀忠は東国大名に出陣を命じて、23日江戸を発ち11月10日伏見城に入った。家康は早くからこの時に備えてイギリス・オランダの商人にヨーロッパ製の大砲など購入していた。そして側近の豪商を通じ、弾丸用の鉛、火薬なども買い込んだ。兵糧も充分であった。
 これに対し大坂方は慌てて軍需物資調達にはしり、大坂方の蔵米や商人からの手当てで合わせ20万石備蓄した。又10月12日には大阪方は堺の町を襲撃武器弾薬を奪取して大坂城へ運び込んだ。これが大坂の陣の最初の戦闘だった。図:大坂冬の陣布陣図(蓬左文庫所蔵)。

 11月17日家康摂津住吉に着陣秀忠摂津平野に陣を敷いた。家康の発達した出陣命令に従い大坂には全国の大名の軍勢が続々と集結し、その数20万。かって関ヶ原では敵対した毛利や島津、上杉、佐竹といった外様大名らも徳川方に味方して大坂城の包囲網に加わったのである

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