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2015年5月10日 (日)

争乱の戦国史202(江戸Ⅰ08): 徳川幕府の体制強化

 政権強化のため、秀吉が朝廷に接近したのに対し、家康朝廷への圧迫を強めて行った。家康1609年(慶長14)後陽成天皇が女官たちを死罪にしようとした際、「流罪に留めるべき」として天皇の決定を覆えしてしまった
 幕府からの圧力を不快に思った後陽成天皇は、幕府に譲位の意を伝え、1611年3月27日(慶長16)、第3皇子政仁親王に譲位した。政仁親王は4月12日に即位礼を行い、後水尾天皇として即位した。後年、徳川秀忠の娘・和子(マサコ)がこの後水尾天皇の中宮になる。武家出身が中宮となるのは異例の事だが、朝廷との関係を深めたい幕府の強い要請で実現させた。

 家康は江戸の秀忠を将軍として立てつつ、大御所として秀忠を指導し、設立間もない幕府の権威を確立するために尽力していた。
 家康は「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次・榊原康政・伊井直正・本多忠勝ら古くからの側近を徐々に遠ざけ、優れた官僚タイプの人物を側近に迎え、幕府の体制作りを急いだ。中でも本多正信・正純父子を家康は自分の手元に置いて父・正信を江戸の秀忠につけ、駿府からの指示は彼らを通じて江戸に伝えられ、実行に移されていった。しかし、本多親子の発言力が増すにつれ、戦働きで家康に仕えてきた老臣たちの嫉妬を買い、家臣同士の権力闘争に発展する事もあった。

 本多親子以外にも、徳川幕府草創期には多くの優秀な人材が家康の周辺を固め、幕藩体制の整備に参与したのである。
202 臨済宗の僧・金地院崇伝は「伴天連追放令」や寺院法度など宗教政策に深く関与。天台宗の僧・南光院天海は家康・秀忠・家光三代に仕え、幕政にも大きな影響力を発揮した。又、儒者・林羅山は法度の整備や外交文書の起草に携わり、以降幕府の儒官は林家が独占した。左から天海・崇伝・羅山の画像
 1600年(慶長5)日本に漂着したイギリス人のウイリアムス・アダムスは家康に三浦按針という名を与えられ、外交や貿易の顧問的存在として活躍。又世界情勢や学問に関する基礎知識を家康に伝授する重要な役割を担っていました。同じ船で漂着したオランダ人ヤン・ヨーステンは日本を拠点に貿易を行い、貿易による財源確保を狙っていた家康のブレーンとして重用した。

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