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2015年5月 6日 (水)

争乱の戦国史201(江戸Ⅰ07): 支倉常長の欧州派遣

 関ヶ原で東軍につき戦功をあげた伊達政宗は家康の許しを得て、岩出山城から仙台に拠点を移し、城の建築に着手し、この仙台城(青葉城)は1610年にはほぼ完成した。
 1613年、徳川幕府体制も整い始めた頃、政宗は海外に目を向けた。天正遣欧使節以来の大掛かりな、支倉常長を中心とした欧州派遣団「慶長遣欧使節」の派遣である。乗組員は常長の他、伊達家臣11名、幕府舟手頭・向井将監の家臣10名の他、商人、乗組員などの日本人140名、宣教師ルイス・ソテロ、イスパニア使節セバスチャン・ビスカイノら南蛮人が40名他百余名である。
201 船には幕府から託された交易品をはじめ、多くの日本製品が満載されていた。一体、何を目的にして使節団が結成され、派遣されたのか。その目的と性格を浮かび上らせてくれるキリシタン信仰は一つの方便に過ぎなかった。伊達政宗は海外貿易に着目していたのである。スペインやローマとの通商条約の締結が最大の目的であった。

 洋上、およそ90日。凄まじい暴風雨に遭遇しながらも太平洋は乗り切り、メキシコのアカプルコに入港。メキシコからはスペイン艦隊の軍艦で大西洋を横断。スペインに到着後、セビリア、マドリードを経てローマに向かった。
 教皇との謁見を許され、政宗の書状を奉呈して帰国の途に就いたのであるが、仙台に到着するのは月の浦出港以来、7年後の事だった。政宗は幕府に常長帰着の報告した筈だが、詳細は定かでないという。
 常長は1622年7月(元和8)に病没し、ソテロは再来日したが捕縛され、火刑に処されている。彼が政宗の演出に踊らされて、イスパニアからローマを旅している間、日本国内では、幕府がキリスト教の勢いに、貿易上のメリットより、怖れを感じるようになり、キリスト教の禁止令を出していた故、政宗も幕府には逆らえなかった。そして国内ではキリシタン弾圧の嵐に見舞われていたのである。

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