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2015年5月 2日 (土)

争乱の戦国史200(江戸Ⅰ06): 幕府の挑発

 豊臣家1607年(慶長12)頃からしきりに寺社の修復事業を行ってきた。秀吉が1586年(天正14)に創建した京都・方広寺大仏殿の修復もその一つであった。そして秀頼と家康の会見も終わり、平和的な雰囲気が漂う中、1614年4月(慶長19)に梵鐘が完成8月3日大仏開眼供養が予定された。
 だが、豊臣家にとって大切なこの行事に、突如幕府側から横やりが入る。直前の7月南光坊天海が大仏供養の際、天台と真言のどちらが上席か、天台が上席でないと出仕しないと言い張った。又、真言宗派内でも東寺、高野山、醍醐寺のどこが上席かとの争いが起った。やっと収まると、家康開眼と堂供養を同日にするはよくない。堂供養は18日に変更せよと迫った。18日が秀吉の17回忌だから、3日実施すると伝えると更に難題を吹っかけたのである。
200 家康は、新たに鋳造した梵鐘に刻まれている鐘名の「国家安康」は家康の名を裂き家康を呪うものと主張し、又「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しめると読めると、常識では考えられない読み方で難題を吹っかけたのである。家康が問題にした方広寺の鐘

 慌てた豊臣側では、賤ヶ岳七本槍の一人で秀頼の後見役となっていた片桐且元を駿府の家康の元へ弁明に向かわせたが、家康は会おうともしなかった
 その上、家康は豊臣家が多くの浪人を雇い入れていることを強く非難、①大坂城を出て他国へ国替え、②淀殿の江戸在住、③秀頼の江戸在住のいずれかを選べと要求した。大坂方の強硬派は家康の態度に反発し、両者の対立は一触即発の事態となった
 家康は初めから喧嘩を売るつもりであったと言われる。この年2月頃から合戦準備を始めていたのは周知の事実で、知らないのは豊臣関係者だけであったとも言われる。家康はアダムスに鉛を調達させ、コックスからも新型大砲や火薬を買っている。この意味する所は明白であった。大砲の標的は一つ、大坂城天守閣にほかならない。大坂城決戦である。
 この時、大坂城の豊臣秀頼の元に駆けつけた者は、大野治長ら三兄弟、織田有楽・頼長父子、木村重成、薄田兼相、真田幸村、長宗我部盛親、大谷吉継の子盛次、増田盛次、後藤又兵衛、塙団右衛門などの主なき浪人衆だけであった

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