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2015年4月28日 (火)

争乱の戦国史199(江戸Ⅰ05): 二条城の会見

 1605年4月(慶長10)、家康は将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所と称した事は先述した。秀忠の将軍宣下式典は、家康の時とは様相を異にした。家康同様伏見城で行われたが、家康の時は外様大名は細川忠興、京極高次、池田輝政、福島政則の4人で、他は譜代と旗本衆だけであった。だが秀忠の時は、上洛の行列の先陣は伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、後陣に最上義光、佐竹義則、南部利直らの外様大名が加わり京都では島津家久、前田利常などが行列に加わった。
199 こうして徐々に豊臣家恩顧の大名が、徳川家に対する臣従関係に進んで来つつあった。そうして、後水尾天皇の即位礼の為、京都・二条城に滞在していた徳川家康は、1611年3月28日(慶長16)、豊臣秀頼と会見する。家康は秀頼を庭に出て迎え、客殿で対応した。秀頼は加藤清正、浅野幸長らかって秀吉側近に守られるように二条城に入り、家康の接待を受けた。秀吉の妻・高台院(北政所)もこの席に現れ、会見は和やかに終了。秀頼は何事もなく大阪城へと戻る。二条城。
 1605年(慶長10)に家康から上洛を求められたとき「無理強いするなら自害する」とまで言って反対した秀頼の母・淀殿も、加藤清正らの説得を受け、強いて上洛を止めることはなかった。何かにつけ幕府に逆らう態度を見せる豊臣家、中でも淀殿の言動は揺らぐ気配もなく、再び豊臣家が政権の座に返り咲く可能性は全くなかった。清正らは秀頼が幕府に楯つくことなく、穏便な形で豊臣家を守り続けて欲しいと考えていたのである。

 二条城での会見を無事終えたことで、豊臣家の立場は安泰かと思われた。しかし、この時、立派に成長した秀頼を前にして、老いた家康は胸騒ぎを感じ、将来に禍根を残してはいけないと決断したらしい。そして、わずか三年後、両者の決定的な対立へと突き進むのである。

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