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2015年4月10日 (金)

争乱の戦国史195(江戸Ⅰ01): 江戸幕府の成立

 今回より時代区分を「江戸時代」とする1603年2月12日(慶長8)、朝廷は徳川家康を征夷大将軍に任命した。これにより、家康は武家の棟梁として全国大名に号令する立場となり江戸幕府を開いた。
195 家康が関白でなく、征夷大将軍となったのは、武家の棟梁としての正当性を獲得する事と、同じ官職で秀頼との争いを避けるためでもあった。翌年から、家康は本格的に江戸城の修築工事や市街の整備に着手した。工事には諸大名を動員し、江戸湾の埋め立てや治水、江戸と上方を結ぶ中山道・東海道の整備など、大規模な土木工事が行われた。(征夷大将軍宣旨(日光東照宮蔵))
 動員された大名は豊臣家に近い加藤清正や同僚だった前田利長、東北の伊達政宗など有力外様大名が名を連ねており、家保こそが全国諸大名に号令する立場であることを知らしめる絶好の機会であった。

 1603年7月(慶長8)、徳川秀忠の娘・千姫と豊臣秀頼の婚儀が大阪で行われた。家康は豊臣家を一大名の地位に追いやったが、豊臣家の威信未だ衰えずと考え、幕府基盤も未完成のこの時点での敵対は得策でないとの判断があり、徳川と豊臣の融和を図る為の政略結婚だった。
 家康はこの2年後4月(1605年、慶長10)に将軍の座を三男・秀忠に譲り、自身は大御所と称し、駿府に移った。在籍僅か2年で将軍の座を降りたのは、征夷た将軍が徳川家の世襲であることを、天下に示すためであり、また死後の御家騒動を避けるためでもあった。この後も家康は駿府からへ秀忠に対し様々な指示を与え、幕府の実権を掌握し続けた。

 秀忠が伏見城で将軍宣下の儀式を終えた直後、家康は豊臣秀頼に対し、秀忠の将軍就任を祝うため、上洛するよう求めた。これを聞いた淀殿は激怒したという。秀頼が将軍に祝辞を述べることは徳川家に臣下の礼を執る事であり、淀殿には、「一時的に徳川家が政権を担当しているが天下は豊臣のもの」との意識があった。淀殿は「どうしても上洛せよというのなら秀頼と共に自害する」との強硬姿勢を崩さず、すわ両家の戦争が始まるとの騒ぎとなり、止む無く家康も折れた為に事なきを得た。しかし、これにより家康は豊臣家を強く警戒する様になったと言われる。

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