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2015年4月 6日 (月)

争乱の戦国史194(織豊Ⅳ28): 関ヶ原の論功行賞

 

徳川家康は豊臣政権の大老として、即ち公儀として戦い、豊臣大名を動員して謀反人誅伐の戦いとした。が、内実徳川政権樹立をめざして、邪魔者を徴発し公儀の名で一挙に潰す戦争であり、家康が仕組んだもので、その目的を達した
 関ヶ原戦後、上杉・毛利・宇喜多の三大老が「謀反側」廻り、前田は独自の働きもなく、論功行賞は当然家康の独断で行われた。
 関ヶ原から1年後の慶長6年(1601)から7年(1602)にかけ大方の論功行賞が実施された。当然ながら、西軍の大名改易か減封に処された。主な改易では石田三成(19万石)、増田長盛(20万石)、宇喜多秀家(57万石)、小西行長(20万石)、長宗我部盛親(22万石)、織田秀信(13万石)などで、この他の80余家があり、没収総額480万石を上回った。尚改易は免れたものの減封されたの約束を反故にされた毛利輝元(120万石→37万石)、上杉景勝(120万石→30万石)、佐竹義宣(54万石→20万石)などであり、両方合わせ600万石を上回り全国石高の1/3に達した。
 又秀吉が亡くなった時40ヶ国に亘って222万石あった豊臣氏直轄地の65万石にに減らされ、実質的に一大名の地位に転落したのである。
194 これに対し、加増を受けたのは、百名余りに上り、その半数が、徳川氏からは外様大名で、主な者は図表の通りである。その加増高は400万石余りで改易大名からの没収高にほぼ相当した。この加増の特徴は、浅野・池田・福島・山内・黒田・田中・加藤らが石高をほぼ二倍増ないしそれ以上に大幅に増やして、一国を領有する国持大名になった事、かれらは勿論加増は少なくとも大身の大名は西国へ或いはより西方へと転封された事である。そして残りの半数徳川一門と譜代で、その加増高は合せ200万石となった。加増を受けた主な外様大名(単位千石)。
 以上により、徳川幕府の直轄領は大きく増えて400万石に達した。そしてその配置は関東一円と東海道が中心でその他各地に点在する形で置かれている。佐渡金山・石見銀山・生野銀山や京都・奈良などの都市も支配下に入れた。そして関東では江戸に一夜で出向く事が可能な場所に譜代大名が配置され、緊急時に備えた。対して外様は辺地に配置され簡単に江戸や京都へは行けないようになっている。かくして、家康の勢力は国内最大となり、豊臣氏をはるかにしのいだ

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