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2015年3月18日 (水)

争乱の戦国史190(織豊Ⅳ26): 関ヶ原 東軍が制す

 1600年9月15日の関ヶ原の合戦、宇喜多秀家の軍勢は開戦直後から東軍の福島政則による猛攻を受けたが、これを押し返し善戦を続けたものの、兵の疲労がたまりつつあるところへ小早川の裏切りが起ったのである。
 小早川の裏切りを聞いた宇喜多秀家は怒り狂い秀秋の本陣へ突撃、斬り死しようとしたが、家臣に諫められ戦場を離脱。既に大谷吉継隊は全滅、小西行長隊も秀秋の軍勢に襲われ敗走、宇喜多勢だけで戦場の流れを変えるのは不可能だった
 東軍は家康の本体や山内一豊らも攻撃に加わり、一気に形成を逆転。残る石田三成の軍勢に対して総攻撃が行われた。もはやこれまでとみた三成は午後二時頃、伊吹山方面へ敗走した。
190 西軍の配色が濃くなると、それまで戦闘参加を避けていた島津義弘と其の甥・豊久は、的中突破による戦線離脱を決意した。義弘は少数の旗本に守られ福島政則勢の前をかすめるようにして、伊勢方面へ突進した。幸い、東軍の主力、黒田長政、細川忠興らの軍勢は三成の追撃に集中しており正則も敗走する島津勢に襲い掛かるそぶりはなかった炎上する西軍陣所を後に島津軍敗走の図(大阪歴史博物館蔵)。
 島津勢を追撃したのは、松平忠吉、伊井直政、本多忠勝ら一部の武将のみ、島津側は豊久を初め多くの犠牲者を出しながらも追撃をかわし、義弘は伊勢路から堺・大阪を経由して瀬戸内海へ逃れ無事薩摩に帰還した。

 南宮山に陣を敷いた毛利秀は、関ヶ原の勝敗を握っていたと言える。秀元や安国寺恵瓊ら毛利勢が東軍を挟み撃ちしていたら家康に勝ち目はなかった
 恵瓊は当初から三成に加担していた。これに対し、毛利と徳川の対立を避ける画策をしていたのが、吉川広家だった。広家は恵瓊を毛利家に仇なすものと嫌い、家康家臣・本多忠勝密約を結んで戦闘不参加を決めていた。
 毛利全軍の采配を任されていた広家は、三成からの戦闘参加要請をすべて無視。恵瓊の軍勢も広家牽制の為動けず、結局毛利勢は戦わずして戦場を離れた。
 午後4時頃すべての戦闘が終り、関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わったのである。 

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