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2015年3月31日 (火)

争乱の戦国史193(織豊Ⅳ27): 石垣原の戦い

 一方九州では、関ヶ原決戦を前にして、豊前中津城の黒田如水が活発な動きを見せていた。如水の子・黒田長政は上杉討伐軍に加わり、そのまま東軍として関ヶ原に臨んだ。同じく肥前唐津城主・寺沢広高家康に与していた。肥後の加藤清正は東軍に属したが殆ど動きを見せず沈黙。肥前・竜造寺家執政の鍋島直茂は上杉討伐の為上京した主家の竜造寺高房と息子・鍋島勝茂が西軍に参加したため、推移を慎重に見守っていた。この状況下で自由に動けるのは如水だけであった。
193_3 如水は蓄えた資金を使い兵を雇い、忽三千五百ほどの兵を集め部隊を編成し、豊後へ向かわせた。豊後では朝鮮出兵の際の失態で秀吉に改易された大友義統(ヨシムネ)が、毛利の助力を得て、旧領回復のため活動をしていた。如水これを討つという名目で出兵したのである。1600年9月9日(慶長5)、義統は幽居先の安芸から豊後に上陸し、立石城を拠点とし、約三千の兵を集めた。
 9月13日、立石城を目指す如水軍は、石垣原(イシガキバル)(現別府市)で大友軍と衝突石垣原の戦い。大友軍を打ち破って義統に降伏勧告を行った。これを受入れ如水の軍門に降ったのは、関ヶ原の当日(9月15日)の事だった。

 如水の軍勢はその後、毛利勝信の小倉城、毛利秀包(ヒデカネ)(輝元の叔父)の久留米城を落として進撃を続け、関ヶ原に参加せず帰国した柳川の立花宗茂攻撃に参加。小西行長の居城・宇土城を落した加藤清正と鍋島勢もこれの合流するが、宗茂は清正や如水の説得を受け入れて開城したため、大規模な戦闘は行われなかった。その後の九州の東軍は、国境を固める島津勢と対峙するが、島津の粘り強い和睦交渉が功を奏し、11月12日家康から攻撃中止命令が出され、九州での戦闘は終結した
 如水は戦後、家康に協力した息子・長政に苦言を呈していることから、九州を平定してか関ヶ原の勝者と雌雄を決する積りだったので花いかとも云われている。関ヶ原に勝利した家康は、関ヶ原の功績により息子の長政には禄高大幅増加をしたのに対し、如水の行動には疑念を抱いていたと言われ、褒賞を与えることはなかった。

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