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2015年3月22日 (日)

争乱の戦国史191(織豊Ⅳ25): 関ヶ原敗者の戦後

 関ヶ原合戦での小早川秀秋の他、前回記述の吉川広家は毛利を守る為、毛利輝元の西軍盟主は本意でなく祭り上げられたものだと、家康に弁解し輝元無事を願い出た。これに対し家康からは1600年9月14日(慶長5)付で、輝元や広家らに対し、如在無い分国も現状通り約束した。合戦後の22日、輝元は福島・黒田宛並びに本多・伊井宛に執政しを感謝。分国安堵を喜び、大阪城を明け渡した
 東軍は三成の佐和山城を落とし24日に大阪城西の丸を請取った27日家康は本丸で秀頼に戦勝報告後、西の丸に入った。この戦争は豊臣と徳川の戦いでなく、秀頼は何の拘わりもないというのが、家康・東軍諸将、淀殿等の公的見解であった
191_2 土佐・浦戸城22万2千石の領主・長宗我部盛親は三成が挙兵すると西軍に加担。六千六百の兵を率いて宇喜多秀家に従い伏見城攻撃に参加、更に伊勢侵攻、安濃津城攻略に加わった。関ヶ原では南宮山麗に陣を敷き毛利勢を見守る。ところが吉川広家と家康の密約により不戦。盛親もこれに倣い土佐へ逃げ帰った。戦後、家康に謝罪したものの結局領土は没収され、山内一豊に与えられた。馬上の家康画像(大阪歴史博物館蔵)
 小早川秀秋は佐和山城攻めに加わり9月18日に攻略。この功により、宇喜多秀家の旧領から備前美作の五十万石を与えられ、岡山城に入ったがその僅か2年後21歳の若さで病没した。
 毛利輝元は先ほど大阪城を明渡し毛利家安泰と考えていたが、家康は西軍総大将を務めた毛利に厳しく、120万石の領土は没収。吉川秀家の奔走に拘わらず、広家の功績に免じ、毛利は周防・長門の二国36万9千石に大減封されて存続した。

 西軍の実質的主将であった石田三成は再起を図る為戦場を離脱したが、9月21日伊吹山中で捕えられた。同じく逃走した小西行長も伊吹山中で、安国寺恵瓊は京都潜伏中を捕えられ、10月1日、この三人は京都六条河原で処刑された。
 筑後国・柳川の立花宗茂は西軍に加担し大津城攻略に活躍したが、関ヶ原決戦には間に合わず帰国。その宗茂に清正や如水らはその軍略家としての才能を惜しんで降伏を勧告。宗茂はこれに従い城を明渡し、柳川を去った。しかし、その声望は失われず徳川秀忠に取り立てられ、大阪の陣に参戦。旧柳川領主に復帰する。
 適中突破で薩摩へ逃げ帰った島津義弘は、防備を固めて、家康と交渉。関ヶ原で快勝した家康は、豊臣恩顧の大名も健在であり、島津暴発を恐れて1602年12月(慶長7)には家督を継いだ島津家久を上方で引見し領国を安堵した。

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