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2015年3月13日 (金)

争乱の戦国史189(織豊Ⅳ25): 関ヶ原 西軍奮戦

 1600年9月15日(慶長5)、関ヶ原開戦後約2時間、三成盟友・大谷吉継は、東軍の寺沢広高、藤堂高虎、京極高知らを相手に善戦していた。病の為輿に乗って指揮し、広沢隊を簡単に退け。続く藤堂・京極勢を翻弄した。
 小西行長も井伊直正、松平忠吉(家康4男)、本多忠勝、織田有楽(信長弟)を相手に善戦を続けており、西軍が優勢な戦況であった。苛立つ家康は味方鼓舞の為、桃配山を下り、本営を前線に移動させて直接指揮に当たった。が、松尾山の小早川秀秋と南宮山の毛利秀元が敵の側面と背後から攻撃すれば東軍を一気に殲滅出来たであろう。しかし、小早川勢と毛利勢は動く気配を見せなかった
189 午前十時になると、両軍に疲れが見え始めた。三成は膠着状態となった戦局打開のため、狼煙を上げて松尾山・小早川、南宮山・毛利に戦闘参加を促した。だが、両者はこれを無視して動こうとしない。一方の家康も、黒田長政を通じて東軍への寝返りを約束しておきながら一向に動かない小早川秀秋にいら立っていた
 この時、秀秋は三成と家康を天秤に掛けていたのである。一旦は家康に味方する決意であったが、三成から関白への叙任を持ちかけられ、決心が揺らいだ。為に、秀秋はぎりぎりまで戦況を見極めようとしていたのである。図は小早川秀秋画像(高台院蔵)。
 当然ながら、秀秋の元には両軍からの催促の使者が何度も訪れが動じず、正午ごろ堪り兼ねた家康は秀秋の陣へ鉄砲を撃ちこむよう命じた。もし動かぬなら敵とみなすという警告であった。いきなり鉄砲を撃ちかけられた秀秋は家康の怒りに震えあがり漸く腰を上げた。家康は賭けに勝ったのである。尚鉄砲は大砲だったという。

 小早川秀秋の軍勢約一万5千は一斉に松尾山を駆けおり大谷吉継隊の側面と背後から襲いかかった。だが、吉継は裏切りを予測しており、わずか六百程の兵でよく戦った。ところが、吉継指揮下の4隊が秀秋に呼応して突然友軍に襲い掛かった。かくして吉継軍は次第に追い詰められ、家臣に離脱を命じ、自身は自刃し大谷隊は全滅。 これで勢いづいた東軍は、西軍への総攻撃を再開したのである

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