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2015年2月28日 (土)

争乱の戦国史186(織豊Ⅳ22): 関ヶ原 両軍の布陣

 西軍の大谷吉継は、1600年9月2日(慶長5)、いち早く関ヶ原の戦場に陣を敷いていた。続き9月7日、関ヶ原東南の南宮山麓に毛利秀元(輝元養子)、吉川広家(元春三男)、長宗我部盛親、長束正家ら約3万が着陣した。
 石田三成は関ヶ原南西の松尾山(現関ヶ原町)の城址を整備。新城に総大将・毛利輝元を迎えて西軍の拠点とし、長期戦に持込み勝機を掴むつもりであった。
 一方徳川家康9月11日清州城に到着した。本来ならばここで、中山道から西を目指す息子・秀忠の軍勢と合流するはずであった。が、秀忠軍が真田昌幸守る上田城攻略にこだわり、進軍が遅れてしまった。止む無く家康9月14、岐阜城を経て美濃赤坂(現大垣市)に進んだ。
186_3 家康陣を敷いた場所は石田三成らが集結している大垣城から数キロの地点。家康軍の動きの早さに三成はは少なからず動揺したという。
 三成は予定通り毛利輝元を松尾山に入って貰おうと使者を走らせたが、輝元大阪城から動こうとしなかった。これ以前に、毛利一族の軍慈を預かる吉川広家が家康の側近・本多忠勝に接近し、戦闘不参加の密約を結んでいたのである。徳川の有利を確信し、輝元の大阪入城にも反対していた広家は、東軍に内通し、協力することで戦後の毛利家の立場を確保するつもりであった。それ故、三成からの出馬要請は黙殺されてしまった。

 三成は大垣城に籠り東軍を迎え撃ち、家康をくぎ付けにしている間に松尾山の毛利輝元、南宮山に配置した3万の軍勢によって東軍の背後を襲うという計画を思い描いていた可能性がある。しかし、輝元が大阪城から動かなかったため、止む無く9月14日に小早川秀秋を松尾新城に入れた
 
小早川秀秋はもともと豊臣秀吉の正室・北政所の兄である木下家定の子だった。身内に人材の少ない秀吉の優遇を受け出世を続けたが、軽率な性格から疎まれ小早川家の養子となった。秀吉の恩を考えれば当然西軍に付くべきだが、戦前から黒田長政を通じて東軍と接触。戦況を見て決めようとしていた。この様な人物に松尾山を預けていた三成の失敗であった

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