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2015年2月22日 (日)

争乱の戦国史185(織豊Ⅳ21): 大津城の攻防

 1600年9月14日、大垣城に集結する西軍のもとに、徳川家康が最前線である美濃赤坂に着陣したという知らせが届いた。石田三成の軍師を務める島左近は、家康の出現に浮足立つ西軍を鼓舞する為一帯を組織し、蒲生氏郷、宇喜多氏の武将・明石全登らを率いて大垣城と美濃赤坂の中間を流れる杭瀬川へと出陣した。左近は明石勢を伏兵として周辺に潜ませ、杭瀬川を挟んで対峙した東軍の中村一栄、有馬豊氏らをしきりに挑発。この挑発に乗っておびき出された中村・有馬勢を明石勢に急襲させ、混乱状態に陥れた。小規模な戦闘ではあったが、この「杭瀬川の戦い」に勝利した事で西軍の士気一気に回復したと言われる。
185_2 9月3日大津城(大津市)の京極高次籠城の準備を進めていた。高次は当初西軍に味方して北陸方面に向けて出陣したが、三成挙兵前に家康と密約を結んでおり、当然兵を大津へ戻すと西軍に敵対する姿勢を見せたのだ。
 これに対し、西軍は、九州柳川の大名・立花宗茂、出雲富田城主・毛利元康ら約一万五千人の大軍を送り大津城を包囲。大津城に対する攻撃は、9月12日から開始された。寄せ手の一万五千に対し、城兵わずか三千五百余り。琵琶湖に突き出すように造られた大津城は籠城戦に適しているとはいえず、落城は時間の問題であった。

 近江の京極氏は元々浅井氏の支配下であったが、1573年(天正元)浅井長政が織田に滅ぼされるとm高次は信長に属し、豊臣秀吉に引き立てられて大津6万石の大名となった。
 高次の妹は秀吉の側室になって寵愛を受けており、これが高次出世のきっかけであった。これを考えれば高次が西軍に加担するのが自然であるが、高次の妻の初と淀殿、徳川秀忠の妻の江はいずれも浅井長政の娘であり、徳川・豊臣双方とも縁戚関に在ったため、高次は複雑な立場にあった。
 大津城攻撃9月12日から始まり、関ヶ原の合戦の当日である15日の朝に開城。高次は高野山に追放された。しかし、高次の抵抗により、立花宗茂ら一万五千の大軍は関ヶ原に参加できなかった。家康は高次が西軍を足止めしたと功績を認め、戦後若狭小浜八万五千石を与えた

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投稿: Norberto | 2015年3月11日 (水) 04時58分

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