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2015年2月18日 (水)

争乱の戦国史184(織豊Ⅳ20): 上田城の戦い

 1600年8月24日、徳川家康の三男・秀忠中山道経由で上方へ向かうため宇都宮を発った。家康は譜代の譜代の家臣、大久保忠隣・榊原康政ら歴戦の将を秀忠につけ、万全の備えで送り出した。秀忠軍9月2日、信州の小諸城(小諸市)に到着し、上田城(上田市)の真田昌幸に降伏を呼びかける。
 真田昌幸は嫡男・信之、二男・信繁(幸村)とともに家康に従って、上杉攻めに参加していたが、下野の犬伏(佐野市)にいる時、石田三成からの密書を受けとり、西軍への参加を決めて上田城に引返したのである。しかし、嫡男の信之には東軍に属し家康に味方する様に命じ、父子が東西両陣営に分かれる結果となった。
184 1585年(天正13)徳川と真田は上田城を舞台に激闘した。この時、昌幸は徳川軍を撃退し、戦後嫡男信之を家康に出仕させた。以後信之は家康の家臣・本多忠勝の娘を妻に迎えるなど、徳川との関係を深めていた。昌幸自身は一時豊臣秀吉に仕え、二男信繁秀吉の近侍なって大谷善継の娘を妻に迎えた。真田家系図
 石田三成に挙兵を聞いた昌幸は、家康との関係が深い信之を東軍に残し、豊臣家に恩のある自分と信繁は西軍に味方するという苦渋の決断を下した。東西いずれの勝利に終わっても、真田の家名だけは残したいという計算あったと言われる。

 9月6日徳川秀忠は降伏勧告を断った昌幸に対し、総攻撃を開始した。上田城に籠る真田勢は約三千。これに対し秀忠軍は三万八千と圧倒的な戦力差があり、落城は時間の問題と思われた。しかし、戦上手で知られる昌幸は、秀忠軍を徴発しおびき寄せれば攻撃を加えるという巧みな戦いぶりで相手を翻弄。秀忠軍は苦戦を強いられた。
 もともと上田城の戦力など問題となるほどのものでなく、秀忠は是に構わず一刻も早く西上すべきであった。しかし、若い秀忠は功を焦り、家臣たちも天正13年の敗北から上田城攻略にこだわった。真田の狙いは秀忠軍を足止めして西軍を有利に導く事であった。秀忠軍は9月11日になってようやく上田城を諦め、再び西へ向かったのである。
 結局秀忠軍は9月15日の関ヶ原における決戦に間に合わず、真田父子の足止め作戦は大成功を収めた訳だが、それも関ヶ原の勝敗を左右するものではなかった。

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投稿: Noble | 2015年3月 8日 (日) 02時43分

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