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2015年2月13日 (金)

争乱の戦国史183(織豊Ⅳ19): 西軍伊勢へ侵攻

 1600年8月1日(慶長5)に伏見城を落した西軍は勢いに乗じて細川幽斎(藤孝)が守る丹後の田辺城(舞鶴市)を攻撃、畿内制圧を目指した
 次いで伊勢攻略に乗り出し、三万の軍勢を安濃津城(津市)へ派遣。安濃津は薩摩の坊津、筑前の博多津と共に日本三津に数えられた要港で、軍需物資の海上輸送に是非とも抑えておきたい場所だった。東軍についた安濃津城主・富田信高は押し寄せる西軍に対抗する為、伊勢上野城主の分部光嘉、松坂城主の古田重勝の応援を求めた。しかし、分部・古田からの援軍に加えても安濃津城の兵力は1700程度に過ぎず、信高は圧倒的に不利な状況の中で籠城戦を選んだ。
183 8月24日、西軍の毛利秀元、安国寺恵瓊、長束正家らが安濃津城に総攻撃を開始すると、城主信高は自ら前線へ出て奮戦。その妻・北の方も武者姿で槍を手に戦闘に参加し、苦戦する夫を救出したと伝えられている。
 しかし、数の差は如何とし難く、信高翌25日降伏し城を西軍に明け渡した。安濃津城に続き、古田重勝の松坂城が西軍の軍門に下ったが、福島政則が守る長島城(桑名市)は抵抗を続ける。結局西軍は伊勢を平定するには至らず、攻略半ばで東軍の襲来に備え美濃へ向かわざるを得なかった。この伊勢における安濃津城・長島城の抵抗が西軍主力の動きを止め、東軍が西上する時間を稼いで、三成の計画を大きく狂わせるのである。

 伊勢攻めに先立ち、石田三成は8月11日大垣城に入った。三成はここを拠点に美濃・尾張方面を掌握し、東軍を迎え撃とうと考えた。
 しかし、東海道筋の大名たちの協力もあって東軍の動きが予想以上に速く、8月23日には彼らによって織田秀信の岐阜城が落とされてしまった。
 このため、三成は計画を変更し、美濃の関ヶ原付近(岐阜県不破郡)に防衛ラインを設定。伊勢など各地に散っていた武将たちに関ヶ原への集結を呼びかけた。
 三成は関ヶ原の西南に位置し関ヶ原台地全体を見渡すことが出来る松尾山に着目し、急遽築城工事を行って要塞化この城に総大将である毛利輝元を迎えた上で長期戦に持ち込もうと考えた

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