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2015年2月 9日 (月)

争乱の戦国史182(織豊Ⅳ18): 景勝 兼続進言容れず

 小山から撤退を始めた家康を見て、上杉家家宰・直江兼続は今こそ好機と見て、主君・上杉景勝に追撃を進言した。が、景勝は追撃を許さなかった
 景勝はあくまで先代・謙信が培った上杉家の名誉を重んじ「人の危うきに乗ずるは、上杉の兵法に非ず」として兼続を抑えた。一方、兼続はこの機会を逃せばいずれ家康は上杉家の滅亡を狙うだろうと考えた。もし家康が三成に勝利すれば、その勢力は絶大となり完全に手遅れとなる。ここで戦わず滅亡を待つよりは、戦いに打って出るべきだと主張したが、景勝は兼続の意見を断固として退けた。もしこの時、上杉勢が家康の背後から襲いかかっていれば、或は関ヶ原の戦いの勝敗は逆転していたかもしれない。
182a しかし、上杉側が取っていた布陣はあくまで会津一国に籠って防戦するというもの。領外へ出て戦う準備はされておらず、背後には強敵・伊達政宗が控えており、突然の方針転換は危険だった。直江兼続軍師としての立場から家康追撃有利と見たが、景勝は一国の主としての責任から危険を犯す事は避けた直江兼続画像(米沢上杉博物館蔵)
 景勝を説得できなかった兼続は家康が天下を取った場合に備え、最上義光が治める庄内地方を奪い防衛体制を強化する計画を立案。実行に向けて動き始めた。

 8月5日小山から江戸へ戻った徳川家康は、暫く西軍石田三成の動きを慎重に分析するという目的があったが、同時に先鋒として送り出した福島政則や池田輝政ら豊臣恩顧の大名たちが、真に自分の見方であるかどうかを見極める為でもあった。
 一方、清州城で待機する福島政則らは一向に動こうとしない家康の態度を見て、自分たちの家康に対する忠誠心を示すために行動を開始する。
 8月22日、東軍先鋒は織田秀信(信長嫡孫)が守る岐阜城に襲い掛かり、翌23日にこれを攻略。続いて犬山城も落とした。この知らせを受けた家康は、9月1日に漸く重い腰を上げ、三万二千の兵を率いて江戸を出発し東海道を西に向かった。又家康出陣に先立ち、三男のへ秀忠三万八千の兵を率いて中山道経由で上方に向っている。 

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