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2015年1月

2015年1月31日 (土)

争乱の戦国史180(織豊Ⅳ16): 小山評定

 1600年7月25日(慶長5)、小山に陣して、西軍の動きを知った徳川家康は、徳川の家臣だけで対策を練った。家臣からは会津征伐軍を即刻解散し、関東に籠って守りを固め、徳川だけで西軍を迎え撃とうという意見も出たが、結局家康はそのまま軍勢を西に向かわせ、西軍との決戦に臨むことを決断した。
 しかし、会津征伐に同行した大名の多くは豊臣恩顧の者達であり、三成の挙兵に少なからず動揺を見せた。家康には彼らの支持を取り付ける必要があった。そこで家康は秀吉夫妻に我が子の様に育てられた、福島政則を味方に引入れようと考えた。

 福島政則は幼い頃より秀吉に小姓として仕え、秀吉の正妻・北の政所の薫陶をうけて育った豊臣家きっての「武断派」大名であった。一方、官僚的性格の強い三成ら「文治派」は秀頼生母の淀殿を中心とした派閥を形成しており、両者は文禄・慶長の役以来対立を深めていた
 三成は「秀頼をないがしろにする家康を倒す」という名目で兵を挙げているため、これと戦うことは恩ある豊臣家に弓引くことになりかねない。しかし、三成が家康を倒して天下を取った場合、政則ら武断派が政権内で冷遇されることは明らかである。家康はこの対立をうまく利用し、黒田長政に政則説得を命じ、政則は当面の敵である三成を倒すため東軍への参陣を決意した。
180 7月25日家康は諸将を集め軍議を開いた。参加者は福島政則初め、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、山内一豊、池田輝政、生駒一正、有馬豊氏、田中吉政、加藤嘉明ら豊臣恩顧の武将たちばかり。すでに三成挙兵の詳細な情報が伝わっており、彼らの妻子は三成の人質となっている。多くの者が家康に付くか、三成に加担するか決めかねていた小山評定の跡地
 そんな中で、福島政則は「この度の挙兵は三成の策謀であり、秀頼様には何の関係もない。自分は進んで内府殿に味方する」と言い放った。この発言で場の空気は一変。秀吉との縁が最も深い正則が家康に付いたことで、他の大名たちも「豊臣家の恩を忘れた」とのそしりを受ける心配が無くなり競って家康に付くことを誓った。
 これが世にいう小山評定であり、天下の行方を決したエポックポイントであった。

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2015年1月30日 (金)

後藤さん解放緊迫  梅が咲き始めた1

 昨日、IRとヨルダン間の交渉で、ヨルダンに拘束中の女性死刑囚と後藤さんとの交換による後藤さん解放の交渉が行われたようだが、IRにとらわれているヨルダン軍のパイロットの開放も含めた交渉となり、日没期限経過後も交渉が続いている模様。これだけ世界中の注目する交渉ゆえ、双方安易な妥協も出来ず抜き差しならぬ状況の様だ。こうなればヒューマニズム基づき、人間尊重という立場で、政治的諸条件は一切抜きにしての、第3者による解決策しかないようだが・・・。いずれにせよ一時も早い解決が切望される。
 立春に近くなり、ここんところ急に梅の蕾も膨らんで、チラホラと咲きだした。今日は深紅の赤とも言える紅梅が目に付いたので撮って来た(梅シリーズの第一回)。
1 コウバイ(紅梅)。江戸時代以降花と言えばサクラだが、奈良・平安時代を指していた。故に昔のには梅の花に関するものが多い。故に梅の別称も、好分木(コウブンボク)、春告草(ハルツゲグサ)、木の花(コノハナ)、初名草(ハツナグサ)、香散見草(カザミグサ)、風待草(カゼマチグサ)、匂草(ニオイグサ)と多い。勿論梅は昔から食用にもされている。
Photo 梅の花。モモと異なり、花芽が一節に一個しか着かないので、華やかさが無い。が、この花の如く深紅とも言える真赤な花径3cmの花は、かなり豪華である。5枚の花びらで、雄蕊が長く沢山付いている。これも梅の特徴である。

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2015年1月28日 (水)

後藤さん解放に緊迫度増す!  椿咲く

 昨夜、動画サイトにISに拘束されている後藤さん助けを求める画像が公開され、人質交換に24時間の期限を切った事が告げられ、事態が緊迫している状態である事が解った。政府はヨルダンの協力を求めながら早期解放に努力しているようだが、現時点(午後4時)でも具体的な進展が見られず、非常に心配な状況である。
 久しぶりに青空が出たので、歩いてみると、椿が咲いているのを見掛けたので、今日はその椿を紹介。椿は山茶花に類似しており、特に寒椿と称される、椿と山茶花の交配種も出回っており、見た目だけではその区別が判らない。但しこの寒椿も花びらが散るので、花ごとボトッと落ちる椿とは区別できる。今日の椿は花ごと散っていたので間違いはない。
Photo ツバキ(椿)。学名Camellia japonicaから判る様に日本原産。本州~南西諸島に分布。海外では朝鮮半島、台湾に分布。古くから日本人に愛され、日本書紀の景行天皇の条に記載有り、また733年出雲風土記にも椿の字がある。他家受粉で結実し、又他種と容易に交配するため品種が多いツバキは艶がある厚葉で、厚葉樹、艶葉樹からの名の由。
Photo_2 その花。花弁が基部でつながっておる為、萼を残して丸ごと落ちる首が落ちるとの連想から忌嫌われる。写真のツバキは園芸種で、少し早目に開花しているようで、又赤と白のまだら模様の品種も多いため品種名までの特定は手来てない。所謂山椿とはかなり趣の異なる花で、華やかである。
 

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2015年1月27日 (火)

春先の雑草 ノゲシ咲始め

 イスラム国による日本人人質の湯川さんの死と、残る後藤さんの解放条件にヨルダンに拘束されたサジダ・リシャウイ死刑囚との交換要求があったことは共に本人であることは間違いないと、政府は断定したが、ヨルダンの死刑囚の開放は、それと別個の人質交換条件も出てきて、ヨルダンは日本人救出を優先する訳に行かない状況に変わってきた3国間での問題となり、容易には解決できな状況であり、日本政府に焦りが出てきた。こういう時こそ、日本の外交力が問われる。特に金では解決できない問題を如何に解決するかが真の外交力である。
 春めいてきて、雑草の中ではいち早く咲くノゲシが咲き始めたので紹介。
Photo ノゲシ(野芥子)。別名ハルノノゲシ、ケシアザミなど。ケシの名がつくが葉が似ている故で、別種。日本には古くから有る史前帰化植物。北海道~沖縄の道端に生える。当地では1月より咲始めるが花期は2-8月と長く咲き続ける。草丈は50㎝-1mにもなる。葉に鋸歯が付くが、触っても痛くはない。
Photo_2 その花。頭花は黄色タンポポに似た直径約2㎝。舌状花は多数ある。総苞(花の下部を包む部分)1.2~1.5㎝。花柄と総苞はしばしば腺毛があり、粘る。花の後、総苞の下部は膨れ、そう果が熟すと反り返る。

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2015年1月26日 (月)

争乱の戦国史179(織豊Ⅳ15): 西軍 伏見城を攻撃

 石田三成は、家康の会津出陣を上杉と連携して家康を挟撃する好機と考え、先ず家康軍に参陣の為、越前敦賀を発った大谷吉継を味方につけたことは前述した。1600年7月12日(慶長5)、増田長盛はこれを家康方に報ずると共に、増田・長束・前田の三奉行毛利輝元に至急上坂する様にと要請した。淀殿も三奉行と共に石田・大谷の所行を謀叛と見做し、家康方に報じて上坂を求めた。輝元と家康は豊臣政権の大老として謀反の鎮圧、秀頼の守護を期待されたのである。従って淀殿・三奉行にとって上杉も謀反人であり、家康も公儀として謀反人征伐のために出陣したと認識されていたのである。だからこそ、東海から九州・四国に亘る豊臣大名を動員出来たのである。
179 ところが、三成は三奉行を説得し、16日大坂に着いた輝元を味方に引入れ、これを西軍の盟主にかついだ。宇喜多秀家も西軍に付き、輝元は家康の留守居を追って大阪城西の丸に入った。西軍は17日付「内府ちがひの条々」(左図)と題した13ヶ条弾劾状を諸大名に送った。家康が秀吉の法度・置目や起請文に違反した事柄を列挙しており、秀頼への忠節のため西軍に付く様求めた三奉行連署の副状が付された。ここに豊臣家をないがしろにする家康の専横を糾弾し、秀頼を主とする豊臣政権を守ろうとする三成の願いが、スローガンとして宣言された。
 西の丸に残っていた家康の側室たちは、留守居役・佐野綱政の働きで脱出に成功したが、西軍は家康と共に会津に向かった諸将の妻子は人質として大阪城に収容する作戦を採った。

 7月19日、西軍は家康の上方の拠点・伏見城に攻撃を開始。宇喜多秀家や小早川秀秋、安国寺恵瓊、吉川広家、小西行長らが攻撃に加わり、その数は4万に上った。しかし、伏見城を守る鳥居元忠の頑強な抵抗に遭って攻めあぐね、8月1日なってようやく攻略に成功した。
 一方家康は上方の情勢をにらみつつ、7月21日に江戸を発って会津へと向かい、24日には下野の小山に着陣した。
 家康はこの地で伏見城の元忠から発せられた報告を受けとり、西軍が十万もの大軍に膨れ上がっていることを知り愕然とする。政権を奪取するどころか、徳川家の存続すら危うい状況、もはや会津攻めなどしている場合でなかった

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2015年1月25日 (日)

「イスラム国」遂に湯川さん殺害  季節外れの花3啓翁桜

 ユーチューブに投稿された映像と英語のメッセージにより、湯川さんは「イスラム国」に既に殺害され、且つ後藤さんについては、ヨルダンの爆破テロ犯人として捕らえられているサジダ・リシャウイとの身柄交換を求めているとされている。政府はヨルダン政府と協議中であるが今後の対応がどうなるか今のところ未定の様だ。ヨルダンの中東における立場もあり、安易な妥協もできない状況で紆余曲折が予想される
 今日は、季節外れというべきか否か迷う桜を紹介。本来早咲き種ではあるが、これを温室内で温度コントロールして何とか正月に咲かせようした桜・啓翁桜を紹介。尚、この花は我が家の玄関に活けている切り花である。
Photo ケイオウザクラ(啓翁桜)。昭和5年、久留米市の良永啓太郎氏が、中国系のミザクラ(支那桜桃)を台木にしたヒガンザクラの枝変わりとして誕生させたもの。この名前は弥永太郎氏が啓太郎氏の啓の一字を取って名づけたもの。この桜は枝の伸びが良く、枝を切りこんでも弱らず、切り枝用に適している。昭和40年代から山形で栽培が始まった。
Photo_2 その花。蕾が開くと、薄紅色のボリューム感のある花である。枝がスプレー状ななるので、現代的なフラワーアレンジにとても適している由。生花用には温室で蕾を膨らませ、花が開く直前12月下旬から出荷する。こうして本来の花期2-4月を早めている訳である。

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2015年1月24日 (土)

季節外れの花2 サクラソウ

 昨日、日本人二人「イスラム国」に拘束され、2億ドルの身代金を要求され、予告の期限72時間を昨日午後2時過ぎに経過したと見られるが、現在その安否は不明である。政府はシリア近隣国や関係先を通じ、早期解放に向け交渉中と見られるが、具体的な相手側の動きは判らない。何とか早い解決に至るよう祈るばかりである。
 さて、昨日に続き、今日も季節外れの花を紹介しよう。普通の通りに面した民家の露地の鉢植えのサクラソウである。
Photo サクラソウ(桜草)。衆知の桜草。普通この花は3-5月に咲く宿根草で、冬は普通は休眠期である筈。ところが、ご覧の通り、道端の屋外で、プランターに植えられたのが、現在このように花を付けている。南向けの陽だまりなので、咲いても不思議でないのか。桜草は江戸時代から栽培され、現在300種以上あり、花の形や色も様々ある。
Photo_2 その花。花は根本から花茎を直立させ、5-10個の花を付ける。花径は2-3㎝花弁が5枚に深く裂け、さらに各弁が半分近くに裂ける。花色は各種あり、花後、球形の蒴果を結ぶ。昔からの花で、ひな壇の様な展示台に屋根やよしずで囲い鉢を並べる「サクラソウ花壇」伝統的な鑑賞法だとか。

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2015年1月23日 (金)

季節外れの花1 アリッサム

 現時点(午後1時半)で、”イスラム国”に人質とされた拘留期限にあと1時間足らずとなっており、世界中が固唾をのんで見守っている。その中で、日本国は”イスラム国”との接触がないという。非常に危険状態となっている。何とか事態が好転する事を祈るのみである。
 今日は朝から薄曇りで気温が上昇せず、寒い日となっている。このような天候の中で本来今頃咲く花でないのに咲いている花を採り上げてみよう。最近はやりのアリッサム
Photo_2 アリッサム。別名ニワナズナ。又はスイートアリッサム。多年草で、通常春(3‐6月)と(9-11月に咲く花で、高温多湿に弱く夏には枯れてしまう。なのに写真のこの花はご覧の通り、道端の花壇で元気に咲いている。アリッサムは這うように広がるので、吊鉢や花壇の前景、縁どりに使用される。
Photo_3 その花花色以外に、赤、紫、ピンクなど。一つ一つの花は小さいのが集合している。元々冬にも咲くことも珍しくない花で、初心者向けの花とも言われる。花ガラ摘みをすると元気になり次々花を咲かせるらしいが、それが面倒なので、代わりに切り戻しをすれば、コンモリとなって綺麗に咲く由。尚、白アリッサム「種」が違い花の形も異なるという説もある。

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2015年1月22日 (木)

争乱の戦国史178(織豊Ⅳ14): 西軍 大阪に結集

 1600年7月2日(慶長5)江戸に到着した家康は暫く動かなかった。会津へ向かうと見せかけ、石田三成が挙兵するのを待っていたのである。家康が上方を離れば、三成が挙兵するのはだれの目にも明らかだったからである。しかし、家康はその軍勢の規模を、三成の石高から推して、精々2万以下と見積もっていた。又、人望のない三成に加担する大名はわずかと予測していた。
 だが、家康の命に応じ会津遠征に参陣しようとした敦賀城主・大谷義継が美濃垂井城に到着したところ、旧友の石田三成から招きを受け佐和山城へ向かった。そこで、善継は三成の家康打倒の陰謀を知った。知将として名高い義継は、三成のの今回の挙兵が余りにも無謀であると思い、思い止まる様に説得した。が、意志の固い三成は決意を変えず、三日間考えた末に、死を決して会津参陣を中止し、兵を垂井から近江国へ引返し、7月11日佐和山城に入った

 三成に加担することを決めた大谷義継は、西軍の旗頭として毛利輝元を迎える事を提案。三成に対し、かって毛利家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊を味方に引きいれる様助言した。三成から連絡を受けた恵瓊は、その領地である伊予国和気郡から佐和山へ急行し西軍に参加した。
178 恵瓊は120万石を誇る毛利輝元西軍大将に迎えることに成功。更に中山道の要衝・信州上田の真田昌幸を味方につけ、上杉家の直江兼続とも連絡を取る等西軍勢力の増強に尽力した。(真田昌幸画像(原昌義蔵))
 恵瓊の活躍もあって、大阪に吉川広家、小早川秀秋、宇喜多秀家、蜂須賀家正、長宗我部盛親、小西行長、島津義弘、鍋島勝茂など多くの西国大名が参陣。家康の予想に反して、総勢十万に近い兵力を結集したのである。
 又、家康に従って東下している諸将の妻子を人質として大阪城に収容した。そして、会津の上杉景勝、常陸の佐竹義宣、岐阜の織田秀信なども西軍に加わり、家康東西から挟み討つ状況を形成したのである。

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2015年1月21日 (水)

ツルの北帰行始まる  梅の蕾膨らむ

 国内最大のつるの越冬地・鹿児島県出水市のツルが繁殖地の中国東北部やシベリアに向かう北帰行が始まった昨季に比し16日早い。地球温暖化のせいか、或は今季はツル5羽から高病原性インフルエンザウイルスが検出された事など、平年と違う環境のせいかも知れないが、やはり地球温暖化のせいかも知れない。
 さて、花の少ないこの時期、待たれるのは梅の開花。そこで、今の梅の蕾の状況を見て回ると、以下写真の如くであった。この状況であれば3分咲き、5分咲きというのは間もなく見られるのでないかと期待をもった。昨日の大寒を越え愈々春に近づく
Photo 梅Ⅰ〔蕾〕。梅は蕾が膨らみ始めたという段階。まだまだ花が見頃になるのは先のことだが、現在漸く蕾が膨らみ始めた。梅は若葉が出る前に花を咲かせる。桜の様に花一杯とは行かず、枯木に花が付くという風情が、又なんとも言えない情緒を醸す。それを期待させる時期なのだ。
Photo_2 梅一輪。蕾ばかりの中にも、部分的にはこの様に花が開いているのもある。「梅一輪一輪ほどの暖かさ(服部嵐雪)」と詠われた時節が今頃から先のことだろう。今少し立てば、小鳥たちが、花の蜜を吸いによってくる。先ずメジロ、ついでウグイスが花の蜜を吸いに寄って來る。その頃が早春か。待ち遠しい。

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ツル北帰行始まる  梅の蕾福

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2015年1月18日 (日)

春近し  柾木の実

 厳寒というような寒さではないの最低気温が1-3度と低いが昼間10℃を超えるという冬日和。更に今頃特有の周期的な気候変動即ち三寒四温。この様な気温の変化は年を取ってくると結構こたえるものだと実感するようになった。やはり歳のせいだろう。でもこのような気温変化は冬から春へ気候が移り変わる時のパターンであり、この冬と春が交互に来てぐづつく状態を繰り返して一歩一歩と春になってゆく。即ち春近しの証であると思えば、なんとなく楽しく、嬉しくなってくる。
 だが、花芽は膨らんでも花はまだ先、今日は赤く熟してよく目立つ柾木の実を紹介。
Photo マサキ(柾木)の実日本、中国原産短い葉柄対生する。葉身は倒卵円形から楕円形。厚い葉質で強い艶があり葉先は鋭頭、縁には鋸歯がある。常緑樹刈込にも強く密生するのでよく生垣や庭木として使用される。欠点としてミノウスバ(蛾)の幼虫が付きやすく、集団で葉を蚕食し、食害が目立ち景観を悪くする。
Photo_2 その実花は6-7月頃小さい花が咲くがあまり目立たない。花後の果実が熟すと裂開して橙赤色の仮種皮に覆われた種子が現れる。花の少ない今時期には、これが結構目立ち見応えがある。

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2015年1月17日 (土)

阪神大震災20年  早春の草花・ホトケノザ

 阪神大震災から20年、復興のため多くの方々の大変な努力があり、又被災者の方々は苦しい生活を強いられ大変辛苦を耐え忍んで来られた。日本列島は活断層の集まりで出来上がっている。故に今後も当然のことながら何処の地でも大地震に襲われる可能性がある。そのことをよく認識しておれば、今の福島の汚染土の貯蔵地利害対立していて結論を出せないでいるのは誠に残念である。も少し冷静になり、明日は我が身と認識すればも少し寛容な対応も出て来るであろうし、何よりも、この汚染土の安全性をいかに確保し、貯蔵法や貯蔵施設を明解にして、無用な不安や心配を完全に払拭することが今の行政の責任ではなかろうか。もし、この問題が解決でないなら、原発は全廃すべきでないのか
 相変わらず寒いが、木々の花芽が少しずつ膨らんでいる。季節は春に向って進んでいる。前回に続き、今日も早春に花付ける雑草・仏の座を掲載。
Photo ホトケノザ(仏の座)。茎を取囲んでが付く様を蓮華座に見立ての名。アジア、欧州、北アフリカなどに広く分布。日本は北海道外全土に自生。道端や田畑の畦などに見かえる雑草。春の七草のはオニタビラコのことでこれと違う。草丈10-30㎝、四角断面の茎は柔らかく根本近くから枝分かれして伸びる。
Photo_2 その花。花期2-5月。上部の葉腋に2㎝位の紫色唇形状の花を付ける。蕾のままで結実する閉鎖花が多い。花粉が虫などに運ばれない場合の対応で、花を付けずに種子を蕾の中にどんどん作る自稔性の花である。尚、花は受粉はせずに蜜だけを横取りされ無い様に長い筒状になっており、繁殖に万全の体制を持つ雑草である。

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2015年1月16日 (金)

争乱の戦国史177(織豊Ⅳ13): 家康、上杉討伐出陣

 天下取りを狙う徳川家康は、生贄となる相手が欲しかった。豊臣政権内のNo.2ではなく、徳川体制を確立するための絶対的地位の確立のためである。そのために狙われたのが上杉景勝だった。国替えになり領内整備に力を入れる景勝を、出羽・戸沢政盛が「景勝陰謀あり」と訴え出た。それを受け、家康は1600年正月(慶長5)に景勝に上洛をうながしたが、4ヶ月前京から帰国したばかりの景勝は応じなかった。それを承知の上で無理難題を家康は吹っかけたのである。

 こうして、会津・上杉景勝討伐を決めた家康は、豊臣政権の大老として、諸大名に会津遠征の命令を発し、1600年6月16日(慶長5)大阪城を出て伏見城に入った。家康麾下の兵力5万5千。秀頼より黄金二万両・米二万石軍資金として与えられての出陣だった。しかし、上杉討伐は口実で、真意は上方を離れて石田三成の挙兵を誘う狙いが在った。ここで、親豊臣の大名を一気に屈服させ、徳川による天下統一をもくろんだのである。
177_2 この目的完遂のためには、上方の唯一の拠点・伏見城は重要な役割を担う。三成が挙兵すれば、石田方の軍勢伏見城に殺到するのは明らか。しかし、伏見城に残せる徳川軍勢は1800程度だった。徳川威信を失わないため、徹底抗戦が必要で、その役割を実直な鳥居元忠に求めた。6月17日夜は家康は深夜まで元忠と酒を酌み交わし、別れを惜しんで翌日元忠に後事を託し、江戸へ発った。(鳥居元忠の血痕が残る養源院の天井板

 家康を迎え撃つ上杉の家宰・直江兼続は会津の防御を固めた。会津に入る7つ口には強固な砦を築き、特に敵本体の侵攻を白河口とみて、革籠原での一気勝負の計画を立てる。その間、石田三成が挙兵し、戦況を有利に展開しようと考えた。一方家康7月2日江戸に到着。会津進攻の準備を整えつつ三成挙兵をまった。仮に、三成挙兵が今少し遅ければ、上杉氏は滅亡の道をたどったかも知れない。
 家康は江戸到着後、四国・九州の諸大名参陣の他、奥羽の諸将に対しても参陣せよと申し送った。中で、越前敦賀の豪商・田中青六が家康意向の伝達をしている。彼は是が縁で、後佐渡金山経営に乗り出す。とても勝算は無いと見ながら上杉方は新城工事は中止して、支城に武将を配し、守備を固めた

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2015年1月15日 (木)

希望の湧かぬ予算原案  大犬のふぐり咲く

 

 15年度予算案が閣議決定した。当初消費税アップを前提とした諸政策が、景気停滞で消費税増税を先送りしたため、その政策が棚上げされた事もあって、今現在の生活を守れるか否か焦点となるような内容で、従来の制度改善や新たな諸制度の制定は望むべくもない。国民に夢や希望を抱かせるような施策は何もない。
 何よりも景気上昇を促す事が緊急課題だが、急速な回復は望めそうにもない中で、安倍内閣はいつまで具体性のないアベノミクスなる空論を唱え続けるのだろうか。中小企業の活性化を如何に実現するかが最緊急課題で、最大の課題なのに、大企業中心の政策ばかりではどうにもならない。このままでは安倍さんは自縄自縛となる恐れがある。
 相変わらず不順な天候が続くが、この処過去平均気温を上回っている様子で、雑草も花を付け始めた。雑草の内でも最も早い、オオイヌノフグリが既に花を咲かせているので紹介。
Photo オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)。ヨーロッパ原産1890年頃(明治23年頃)東京に帰化。果実が犬のフグリ(陰嚢)に似る故の名だが、オオイヌノフグリの果実は似てない。秋に芽を出し、冬に広がり早春に多数の花を付ける。他の植物が繁茂しない冬に繁茂する仕掛を持つ。寒さに耐える様に細胞内の糖濃度を高める機能を持ち、又葉と茎に毛を持ち雪や霜との直接接触を避ける。
Photo_3 その花花弁は4枚。大きさが違うが左右が対称になる。色はコバルトブルーだが、稀に白もある。太陽光で開閉し、1日で落花するが、2日目にも一度咲くのもある。密で、蜂、花虻、蝶などの虫を誘う虫媒花だが、自家受粉も可能。

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2015年1月14日 (水)

正月も終わり コマチフジが咲いていた

 明日は「どんどやき」。子供の頃、各家から持ち寄った正月の門松、注連縄、お飾り及び書初めなどを焼き、そこで鏡もちを焼いて食べていた。従ってなんとなく今日まではお正月という気分で、勉強もせず遊びまわっていた。この風習は段々縮小しているが、今でも神社では行っているところも多い。又・・・初。初・・・というようになんでも今年最初の行事などには「初」を付けお祝い行事とし、20日頃まで続く様だ。やはり休みと遊び、そして地域の団結などのため行う生活の知恵かも・・・。
 さて、そんな正月気分を残して昨日はゆっくりと冬日の中を歩いてきた。そして、道端の庭に咲いてた花が珍しく、たまたまそこの家人が庭いじりしていたので写真を撮らせてもらい、名を教えて貰ったのがこの花・ハーデンベルギア別名コマチフジ。別名があるぐらいだから、新しい花でもなく以前からあったが、私が知らなかっただけかも・・・。
Photo ハーデンベルギア(Hardenbergia)。豪州東部のタスマニアに3種類分布する常緑樹。日本での栽培はこの内の1種で、ハーデンベルギア・ヴィオラケアのみだそうだ。ヴィオラケアは「すみれ色の」の意で花色が本来すみれ色。が今は白、ピンクもあり、この花は白のウンディホワイトという品種の様だ。日当たりを好むが夏は半日蔭。冬は0℃以上なら霜よけすればよい由。
Photo_2 その花。葉の付根から花径を出して、数十輪の花穂状に咲かせる。コマチフジの名は花が藤に似る故蝶型の花でスイ-トピーやエンドウに似ている。花は細い線形の鞘を付け、熟すと中に数個の豆(タネ)が出来る。花は鉢植えでの鑑賞が多い。普通2~5月に咲くが、暖かい所では今頃か咲いている由。

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2015年1月13日 (火)

地方の御都合・知事選  寒木瓜が咲いている

 先日の佐賀知事選は、自民・公明推薦の候補破り、農協支持の山口氏が当選した。これまで、農協は自民党の支持母体であり、地方の自民支持票は農協の支持によるところが大きかっただけに、今回は自民推薦候補との”分裂選挙”となってしまった。
 この結果は、政府の農業政策に起因していることは明らかである。即ちTPP加入問題に端を発し、現状の農業保護政策の転換を図る政府、これに抵抗する農民、農業団体の軋轢の結果なのだが、現在の日本の農業問題を真正面から取り組まないできたことの諸問題が噴出し始めたようだ。手先だけでの対応でなく芯から基本に取り組むことが必要な時だろう。
 さて、今日は寒い冬枯れの中で咲きだした木瓜を掲載。
Photo カンボケ(寒木瓜)。中国原産。日本へは平安時代に渡来。木瓜と同じ品種だが、普通3~4月に咲くに対し、11、12月頃から咲始めるものを指して言う。木瓜は実が瓜に似ている故の名で、木瓜と書いてモッケと呼んだのがモケ→ボケとなったとの事。寒期の開花故、葉が付かず、花のみが付く。
Photo_2 その花11-4月に咲くものを云う。花径は3cm前後(これは2cm位)。雄花と両性花がある。秋にはカリン似た形の実が黄熟し、芳香を放つ。花の種類は多く、白色、ピンクもあり、絞り、八重などもあるが、写真の朱色が一番多い。果実は食用に向かないが、果実酒は良い香りで、咳の妙薬でもあり、疲労回復、下痢止めにも効く。平安から江戸期真では薬用の栽培が主だった由。

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2015年1月12日 (月)

争乱の戦国史176(織豊Ⅳ12): 上杉謀反の讒言

 五大老の一人・上杉景勝は、越後・出羽庄内・北信濃など90万石を領し、右腕である直江兼続直属部下を各地に配し領国経営を行っていた。
 1598年正月(慶長3)上杉氏は秀吉の命令で会津120万石に国替えとなった。元々会津は秀吉が最も信頼した蒲生氏郷に与えられ、伊達政宗に対する抑止力であった。しかし、氏郷1595年(文禄4)に病死したため、その後に景勝に白羽の矢が立った。景勝は急ぎ越後から会津へ移り、越後には越前の堀秀治が入った。

 1598年10月(慶長3)、秀吉の死を知った景勝伏見に急行して秀頼に拝謁し、秀吉亡き後の混乱解消に尽力した。しかし、会津に移ったばかりの景勝は領国経営に忙しく、翌慶長4年(1599年)8月には帰国。砦の修築や道路の補修に取りかかった。又、浪人を新たに雇うなど軍備も整え1600年2月(慶長5)には伊新城の建設に着手するなど領内の整備に追われた。
176 ところがこの動きを見た出羽仙北郡の領主・戸沢政盛と、越後に入った堀秀治「上杉は謀叛の準備を行っている」と訴えた。堀は越後入りの際、直江兼続との間に年貢に関するトラブルがあり、上杉を快く思っていなかった。
 更に、1600年3月(慶長5)、上杉家の重臣・藤田信吉が会津を出奔し、大阪の家康に直訴を行った。
 家康はこれを好機ととらえ、景勝を詰問する書状を発し、弁明のため上洛するよう命た。しかし、上杉はこれを拒否。特に直江兼続は家康に強く反発し、家康を非難するかの書状を送った。世にいう「直江状」である。この書状の内容に家康は激怒し、上杉討伐を決定したと云われている。(は堀秀治の老臣・堀直政の木像(高台院蔵))。
 但し、直江状は写ししか残っておらず、実物が残っていないため、偽書だとする説もある。また、兼続とかねて親交のあった石田三成が同時に挙兵し、家康を挟み撃ちする作戦であったとする説があるが、明確な共同作戦は立てられたとするのは無理があると言われている。
 5月3日に到着した「直江状」に、家康は3中老らが止めるのも聞かず、遂に出兵を決した。そうして伊達政宗をはじめ諸大名に中央政府軍の統率者として会津出兵を指令し、自らも6月18日大阪城を発し、遠征の途に就いた

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2015年1月11日 (日)

寒い! でも木々の芽は膨らみ始めた 葉牡丹

 寒い日が続く。暦では6日が小寒で、20日が大寒、そして2月4日が立春。即ち2月4日以降は春なのだが、その前に大いに寒い「大寒」を越さねばならぬ。でも考えればあと3週間余りで立春だ。だから、今のうちに寒い時でないと味わえないことは、寒さを我慢して味わっておくべし。但し私どもの老齢者は、無理した結果、人様に迷惑をかけるようなことは慎みましょう。
 その寒い日ながら、木々の芽をご覧ください。殆ど木々は新芽が少しずつ膨らみ始めている。もう既に春を始めています。なんとなく夢が膨らみ希望の湧く季節になる。
 さて、今日はその冬の内に見ておくべき葉牡丹を掲載して置く。珍しくもないが、冬の代表として
ハボタン(葉牡丹)。
Photo_2 :品種名:光子ロイヤル。 葉牡丹の概要:結球しない古い品種のキャベツ、もしくはケール(キャベツの一種)が観賞用として栽培される内に品種改良されたもの。ケールの渡来鎌倉時代の中期又は江戸前期とされるが、現在のハボタンの作出江戸中期以降。当時から紅白二色が好まれた由。明治以降園芸植物として広まり、海外へも紹介され、世界に広まった。
Photo :品種名:チリメン(縮緬)。  園芸種葉が平滑な東京丸葉が江戸時代からの直系で、縮緬性のケールを再交配し、葉の先が大きく縮れる名古屋縮緬が鉢植向きに作出された。その両者の交配で戦後、大阪丸葉が生まれて、その三種が代表的な基本種となった。1980年代からは葉が縮れて深い切込のある「くじゃく」「さんご」「かんざし」、中央部が紅になる「日の丸」が出来た。

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2015年1月10日 (土)

冬に咲く蘭 シンビジューム

 数年前、友人の影響もあって、一時蘭に凝った時期がある。誰でもやる様に洋ランの入門時に先ず取り組むのがこれ温室も要らず、難しくないからである。最終的には胡蝶蘭まで行ったが、これは簡易ながら温室も要り、数年継続して咲かせるの難しい。それから洋ランは止め東洋蘭に移り春蘭、寒蘭等いじり、寒蘭は数株残っている。そんな思い出のシンビジュームが花屋さんの店頭に在ったので撮って来た。
Photo シンビジュームの概要学名 Cymbidium。 原産地 中国、ネパール、インド、タイ、豪州、日本。 開花期 1~5月。 草丈 30~80㎝。 花径 4-8㎝。 花色 白、ピンク、赤、黄、橙、緑、茶。 用途 鉢植、切花。 胡蝶蘭と並んでポピュラーな花だから、良く知られている。
Photo_5 育成の環境:冬部屋に取り込めば開花する。通常最低気温が5℃以上あれば越冬できる。花持ちは1つの花で1ヶ月ぐらいもつ。次から次に花を咲かせるので、3ヶ月近く花を楽しめる。室内のなるべく日の当たる明るい窓辺等に置くとよく、夜は極端に冷え込まない所。桜の咲く頃外に出す。
 
Photo_4 Ⅲ植え替えと増やし方:冬の花期が終わって植え替えは3~4月5月に入ると新芽、根も生育時期になる。バルブ(球根)を2,、3個で1鉢となるよう切り分けて、新しい用土で植える。夏の間、薄日を当てながら新しい芽を育て、には新しい花径が蕾を付け始める

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2015年1月 9日 (金)

寒中 花壇の王様 パンジー

 七草も済み、漸く正月気分も抜けたが、やはり年中で一番寒い時期。晴れて且つ風のない日でないと外へ出歩く事も少ないが、今時期民家の花壇や路傍の花壇などを花一杯で埋めているのがパンジー。最近はかなり大型の花を付けたのが多いので撮って来た。
Photo 誕生:スミレ属。これら園芸種以外の野生スミレも含めパンジーと称したり、小型のパンジービオラということもある。学名Violaスミレ属のこと。1800年代アマチュア園芸家により、サンシキスミレと野生スミレ(ビオラ・ルティア)及び近東のビオラ・アルタイカの交配で生まれた。1830年には400種あった。
Photo_2 多彩な花色:交配により黄金、オレンジ、赤、紫、青紫、白青、スミレ色、濃青、複合色の混合など多彩な色彩がある。日当たりの良い所に育つが、丈夫な植物で、寒さに強く降雪で雪に埋もれても、若干凍結しても、株、茎、葉、花は損傷せず、雪が溶けると元気に育つ。
Photo_3 日本での栽培:日本には江戸時代末(1860年代)に入ってきた。当時の呼び名は遊蝶花、胡蝶草などで、一般家庭の栽培戦後で、昭和30年代に園芸家を中心に、世界各地の様々なパンジーが収集され、40年代育苗会社が育種を開始現在1000種以上となっている由。
 

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2015年1月 8日 (木)

争乱の戦国史175(織豊Ⅳ11): 大老家康の独走

 1599年閏3月13日(慶長4)、家康が伏見城に入ったのは、生前の秀吉の指示に沿ったもので、許容範囲であった。ところが、同7月上杉が帰国し、次いで前田利家を継いだ利長も帰国してしまった。このため10月1日の堀尾吉晴宛ての知行宛行状は残り3人の大老連署で出ており、その体制は翌1600年4月(慶長5)まで続くが、毛利輝元・小早川秀家も帰国したからその後は確認できない。
 ところが、家康は同年2月田丸忠昌への美濃4万石の宛行状は単独で発給。その後も単独で宛行、寄進していく。既に五大老制は失われ、名実ともに家康の専断に移行したのである。だが、表向きは大老の一人として行動している。
175 これより先1599年9月7日には、秀頼に重陽(9月9日)の賀を述べる為と称し、大阪の石田邸に入り、下旬には北政所が大阪城西の丸を出て京都に移ると、その後に入り自分の居所としてしまった。翌1600年正月元日(慶長5)、諸大名は本丸で秀頼に年賀を述べた後、西の丸の家康にも年賀の儀礼を行った。次いで、家康は藤堂高虎に命じて西の丸に天主を築かせる。この間に謀反の疑いを理由に、淀殿・秀頼の側近の大野治長を処罰して結城秀康に預け、浅野長政を蟄居させた。五奉行の内の実力者二人が除かれたのである。続いて奉行の一人・増田長盛から、前田利長と婚姻関係に在る細川忠興が謀反を計画との密告で、二人を糾弾11月忠興は嫡子・忠利を、利長は生母・芳春院を人質とし江戸に送り、家康に屈服した。家康画像(日光東照宮所蔵)。

 1599年閏3月(慶長4)に島津氏の老中・伊集院忠真が父を主君に殺されたのを恨み、日向・都城に挙兵日向庄内の乱)。家康は九州大名の取次ぎであった寺沢博隆を派遣し、情勢により九州鎮圧に動員できる権限を与え、諸大名に通知。これは島津領の私戦であるが、家康が「公儀」として介入したものである。
 こうして実質的に公儀を一人で担うようになった家康は、あくまで豊臣政権の政務を建前としつつ、政敵を追い落とし、屈服させ、恩を売って覇権確立に向け手を打った。次の攻撃目標会津120万石の上杉景勝だった。

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2015年1月 7日 (水)

色づく果実にレモン追加

 今日は天気予報が若干ずれて、あさから薄日の差す、なんとなく春めいた日和と成った。最高気温も10℃を超える様である。やはり寒すぎるより暖かく、春気分の天候なら、生きることに意欲が湧いてきそうだ
 九州では種類の多い柑橘類を順次紹介したつもりが、よく見るとレモンを掲載してないようなので、改めて、今日はレモンを紹介。他の柑橘類と同様、黄色く色づき、各家庭の庭木のレモンは春になると、順次集収穫されるだろう。
Photo レモン(檸檬)。原産地はインド北部。枝に棘があり、庭樹として余り好まれないが、自家消費位のレモンは収穫できる。日本での栽培は矢張り柑橘類の多い地方の様である。当地では庭木として且つ自家消費用としている家が多い。一本の木から100-150個ぐらい取れると云うのは園芸の話。庭木は自家消費用が殆ど。
Photo_2 その実。香りの強い果実と思われるが、香りそのものは果皮に多く、果汁は食用に供される。食用以外には香料の天然物由来の溶剤として、利用される。即ち、洗浄剤やガム剥がしの溶剤として使われる。発砲スチ一ロールを熔かすので、リサイクルに使われる。医療ととしては、精油が湿布薬や咳止め薬として利用される。

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2015年1月 6日 (火)

天気予報の確実性  寒中の水仙

 最近の天気予報、新聞に載ったり、TVでの予報は4,5日先までの的中率は大したものだ。昔なら何か行事予定があって、当日天気予報が雨であっても、現実には当時は晴れたなんてことが普通だった。ところが最近は先ずこの予報が大きく外れることはない。観測点の増加と、その精度の向上により地球規模での正確な予報、逆に近隣別(5km)の個別予報の正確さなど驚くべきである。
 ところが、長期予報となるとそうは簡単にはゆかないらしい。特にエルニーニョによる影響如何の見通しが難しいようだ。そんな事で、今冬の長期予報が比較的暖冬とされていたが、12月は日本列島が凍りついた。天気予報もさることながら、人生そんなに先々、すべて見通しが可能なら余り面白くないのでは?とも思う。
 今日は花の少ない時期、よく咲いている水仙の内、ペーパーホワイトを紹介。
Photo ペーパーホワイト(Paper White)。別名フサザキスイセン。過日掲載したニホンスイセンと殆ど変らないが、副花冠(花の中心部)がの色が異なり白色だ。だから花が真っ白で、紙のようなところから来た名前。品種名は英名と同じ。地中海沿岸が原産地。中国より平安時代に渡来し、野生化したもので、水仙の原種の一つ。
Photo_2 その花。ニホンスイセンに先駆けて咲き開花期は12月ー3月。写真の如く、6枚の花弁と共に、中央部の副花冠も白いのが特徴。日本人は白が純白ということ好きらしく、この水仙を群生させた公園(名所)は日本中に多い。尚当初は薬草として導入されたらしい。

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2015年1月 5日 (月)

賀正 正月の花・蝋梅咲く

 明けましておめでとうございます。今年も今日からこのブログまた始めます、どうかよろしく。
 元旦・二日と厳しい寒さで、特に元旦は雪もちらつき、冷たい風があった。故に毎年恒例の初詣は止めて、テレビを見ながらお神酒を戴いていました。二日は少し寒さも和らぎ、小雨が時々降るが、晴間もあると云う天気だったので、午後から毎年行く香椎宮に参拝。例年だと先ず大鳥居までの間車の数珠つなぎ。依って、やや遠方の駐車場に車をおいての参拝だが、今年はこの悪天候が響いたか、様子見にと車でゆくと、大鳥居そばの駐車場まで、全く渋滞は無く、且つ駐車場もよく空いていた。そして何よりも大鳥居から拝殿までの長蛇の列もなく全くスムーズな参拝が出来た。まるで狐に騙された感じであった。因みに翌3日は例年通りの渋滞だった様子。
 さて、昨日は寒さも緩み、風もなく、久しぶりの好天となったので、今年の初歩きで、体を動かした、その途次、ふと見ると民家の蝋梅が花を付けていたので早速撮って来た。蝋梅特有の花の付き方を詠った芥川龍之介の句を紹介。「蝋梅や枝まばらなる時雨ぞら」。
Photo ロウバイ(蝋梅)。中国原産、日本には17世紀頃に渡来。中国名の蝋梅に因むが、花弁が蝋のような色であり、蝋細工のようなこと、及び蝋月(旧暦12月)に咲く故の名。基本種は花の中心部が暗紫色だが、普通の栽培種は写真の様に全体が黄色のソシンロウバイ(素心蝋梅)である。土壌を選ばず日陰でも咲く強い花。
Photo_2 その花。花期は12~3月。葉が出る前に黄色い花を付け嫌味の無い芳香を出す。ご覧のとおり多数の花びら(花被片)があり、外側は大形で黄色く、内花片も黄色だが、基本種はこれが紫色。花の蕾は「蝋梅花」という生薬となり、鎮咳、解熱、鎮痛薬として又風邪やのどの痛みにも用いられる。

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