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2015年1月26日 (月)

争乱の戦国史179(織豊Ⅳ15): 西軍 伏見城を攻撃

 石田三成は、家康の会津出陣を上杉と連携して家康を挟撃する好機と考え、先ず家康軍に参陣の為、越前敦賀を発った大谷吉継を味方につけたことは前述した。1600年7月12日(慶長5)、増田長盛はこれを家康方に報ずると共に、増田・長束・前田の三奉行毛利輝元に至急上坂する様にと要請した。淀殿も三奉行と共に石田・大谷の所行を謀叛と見做し、家康方に報じて上坂を求めた。輝元と家康は豊臣政権の大老として謀反の鎮圧、秀頼の守護を期待されたのである。従って淀殿・三奉行にとって上杉も謀反人であり、家康も公儀として謀反人征伐のために出陣したと認識されていたのである。だからこそ、東海から九州・四国に亘る豊臣大名を動員出来たのである。
179 ところが、三成は三奉行を説得し、16日大坂に着いた輝元を味方に引入れ、これを西軍の盟主にかついだ。宇喜多秀家も西軍に付き、輝元は家康の留守居を追って大阪城西の丸に入った。西軍は17日付「内府ちがひの条々」(左図)と題した13ヶ条弾劾状を諸大名に送った。家康が秀吉の法度・置目や起請文に違反した事柄を列挙しており、秀頼への忠節のため西軍に付く様求めた三奉行連署の副状が付された。ここに豊臣家をないがしろにする家康の専横を糾弾し、秀頼を主とする豊臣政権を守ろうとする三成の願いが、スローガンとして宣言された。
 西の丸に残っていた家康の側室たちは、留守居役・佐野綱政の働きで脱出に成功したが、西軍は家康と共に会津に向かった諸将の妻子は人質として大阪城に収容する作戦を採った。

 7月19日、西軍は家康の上方の拠点・伏見城に攻撃を開始。宇喜多秀家や小早川秀秋、安国寺恵瓊、吉川広家、小西行長らが攻撃に加わり、その数は4万に上った。しかし、伏見城を守る鳥居元忠の頑強な抵抗に遭って攻めあぐね、8月1日なってようやく攻略に成功した。
 一方家康は上方の情勢をにらみつつ、7月21日に江戸を発って会津へと向かい、24日には下野の小山に着陣した。
 家康はこの地で伏見城の元忠から発せられた報告を受けとり、西軍が十万もの大軍に膨れ上がっていることを知り愕然とする。政権を奪取するどころか、徳川家の存続すら危うい状況、もはや会津攻めなどしている場合でなかった

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