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2015年1月16日 (金)

争乱の戦国史177(織豊Ⅳ13): 家康、上杉討伐出陣

 天下取りを狙う徳川家康は、生贄となる相手が欲しかった。豊臣政権内のNo.2ではなく、徳川体制を確立するための絶対的地位の確立のためである。そのために狙われたのが上杉景勝だった。国替えになり領内整備に力を入れる景勝を、出羽・戸沢政盛が「景勝陰謀あり」と訴え出た。それを受け、家康は1600年正月(慶長5)に景勝に上洛をうながしたが、4ヶ月前京から帰国したばかりの景勝は応じなかった。それを承知の上で無理難題を家康は吹っかけたのである。

 こうして、会津・上杉景勝討伐を決めた家康は、豊臣政権の大老として、諸大名に会津遠征の命令を発し、1600年6月16日(慶長5)大阪城を出て伏見城に入った。家康麾下の兵力5万5千。秀頼より黄金二万両・米二万石軍資金として与えられての出陣だった。しかし、上杉討伐は口実で、真意は上方を離れて石田三成の挙兵を誘う狙いが在った。ここで、親豊臣の大名を一気に屈服させ、徳川による天下統一をもくろんだのである。
177_2 この目的完遂のためには、上方の唯一の拠点・伏見城は重要な役割を担う。三成が挙兵すれば、石田方の軍勢伏見城に殺到するのは明らか。しかし、伏見城に残せる徳川軍勢は1800程度だった。徳川威信を失わないため、徹底抗戦が必要で、その役割を実直な鳥居元忠に求めた。6月17日夜は家康は深夜まで元忠と酒を酌み交わし、別れを惜しんで翌日元忠に後事を託し、江戸へ発った。(鳥居元忠の血痕が残る養源院の天井板

 家康を迎え撃つ上杉の家宰・直江兼続は会津の防御を固めた。会津に入る7つ口には強固な砦を築き、特に敵本体の侵攻を白河口とみて、革籠原での一気勝負の計画を立てる。その間、石田三成が挙兵し、戦況を有利に展開しようと考えた。一方家康7月2日江戸に到着。会津進攻の準備を整えつつ三成挙兵をまった。仮に、三成挙兵が今少し遅ければ、上杉氏は滅亡の道をたどったかも知れない。
 家康は江戸到着後、四国・九州の諸大名参陣の他、奥羽の諸将に対しても参陣せよと申し送った。中で、越前敦賀の豪商・田中青六が家康意向の伝達をしている。彼は是が縁で、後佐渡金山経営に乗り出す。とても勝算は無いと見ながら上杉方は新城工事は中止して、支城に武将を配し、守備を固めた

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