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2015年1月12日 (月)

争乱の戦国史176(織豊Ⅳ12): 上杉謀反の讒言

 五大老の一人・上杉景勝は、越後・出羽庄内・北信濃など90万石を領し、右腕である直江兼続直属部下を各地に配し領国経営を行っていた。
 1598年正月(慶長3)上杉氏は秀吉の命令で会津120万石に国替えとなった。元々会津は秀吉が最も信頼した蒲生氏郷に与えられ、伊達政宗に対する抑止力であった。しかし、氏郷1595年(文禄4)に病死したため、その後に景勝に白羽の矢が立った。景勝は急ぎ越後から会津へ移り、越後には越前の堀秀治が入った。

 1598年10月(慶長3)、秀吉の死を知った景勝伏見に急行して秀頼に拝謁し、秀吉亡き後の混乱解消に尽力した。しかし、会津に移ったばかりの景勝は領国経営に忙しく、翌慶長4年(1599年)8月には帰国。砦の修築や道路の補修に取りかかった。又、浪人を新たに雇うなど軍備も整え1600年2月(慶長5)には伊新城の建設に着手するなど領内の整備に追われた。
176 ところがこの動きを見た出羽仙北郡の領主・戸沢政盛と、越後に入った堀秀治「上杉は謀叛の準備を行っている」と訴えた。堀は越後入りの際、直江兼続との間に年貢に関するトラブルがあり、上杉を快く思っていなかった。
 更に、1600年3月(慶長5)、上杉家の重臣・藤田信吉が会津を出奔し、大阪の家康に直訴を行った。
 家康はこれを好機ととらえ、景勝を詰問する書状を発し、弁明のため上洛するよう命た。しかし、上杉はこれを拒否。特に直江兼続は家康に強く反発し、家康を非難するかの書状を送った。世にいう「直江状」である。この書状の内容に家康は激怒し、上杉討伐を決定したと云われている。(は堀秀治の老臣・堀直政の木像(高台院蔵))。
 但し、直江状は写ししか残っておらず、実物が残っていないため、偽書だとする説もある。また、兼続とかねて親交のあった石田三成が同時に挙兵し、家康を挟み撃ちする作戦であったとする説があるが、明確な共同作戦は立てられたとするのは無理があると言われている。
 5月3日に到着した「直江状」に、家康は3中老らが止めるのも聞かず、遂に出兵を決した。そうして伊達政宗をはじめ諸大名に中央政府軍の統率者として会津出兵を指令し、自らも6月18日大阪城を発し、遠征の途に就いた

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