« 色づく果実にレモン追加 | トップページ | 寒中 花壇の王様 パンジー »

2015年1月 8日 (木)

争乱の戦国史175(織豊Ⅳ11): 大老家康の独走

 1599年閏3月13日(慶長4)、家康が伏見城に入ったのは、生前の秀吉の指示に沿ったもので、許容範囲であった。ところが、同7月上杉が帰国し、次いで前田利家を継いだ利長も帰国してしまった。このため10月1日の堀尾吉晴宛ての知行宛行状は残り3人の大老連署で出ており、その体制は翌1600年4月(慶長5)まで続くが、毛利輝元・小早川秀家も帰国したからその後は確認できない。
 ところが、家康は同年2月田丸忠昌への美濃4万石の宛行状は単独で発給。その後も単独で宛行、寄進していく。既に五大老制は失われ、名実ともに家康の専断に移行したのである。だが、表向きは大老の一人として行動している。
175 これより先1599年9月7日には、秀頼に重陽(9月9日)の賀を述べる為と称し、大阪の石田邸に入り、下旬には北政所が大阪城西の丸を出て京都に移ると、その後に入り自分の居所としてしまった。翌1600年正月元日(慶長5)、諸大名は本丸で秀頼に年賀を述べた後、西の丸の家康にも年賀の儀礼を行った。次いで、家康は藤堂高虎に命じて西の丸に天主を築かせる。この間に謀反の疑いを理由に、淀殿・秀頼の側近の大野治長を処罰して結城秀康に預け、浅野長政を蟄居させた。五奉行の内の実力者二人が除かれたのである。続いて奉行の一人・増田長盛から、前田利長と婚姻関係に在る細川忠興が謀反を計画との密告で、二人を糾弾11月忠興は嫡子・忠利を、利長は生母・芳春院を人質とし江戸に送り、家康に屈服した。家康画像(日光東照宮所蔵)。

 1599年閏3月(慶長4)に島津氏の老中・伊集院忠真が父を主君に殺されたのを恨み、日向・都城に挙兵日向庄内の乱)。家康は九州大名の取次ぎであった寺沢博隆を派遣し、情勢により九州鎮圧に動員できる権限を与え、諸大名に通知。これは島津領の私戦であるが、家康が「公儀」として介入したものである。
 こうして実質的に公儀を一人で担うようになった家康は、あくまで豊臣政権の政務を建前としつつ、政敵を追い落とし、屈服させ、恩を売って覇権確立に向け手を打った。次の攻撃目標会津120万石の上杉景勝だった。

|

« 色づく果実にレモン追加 | トップページ | 寒中 花壇の王様 パンジー »

戦国時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/60940954

この記事へのトラックバック一覧です: 争乱の戦国史175(織豊Ⅳ11): 大老家康の独走:

« 色づく果実にレモン追加 | トップページ | 寒中 花壇の王様 パンジー »