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2014年12月

2014年12月28日 (日)

数え日の風景

 あと数日で正月という、丁度今日辺りの事を云う季語「数え日」。あと幾日で正月と数えるところから来た。年末で忙しい時期ではあるが、さて何から手を付けようかと迷う時期でもある。ここ数日はよく晴れて、真っ蒼な高い空に、取り残された真っ赤な熟柿が際立っていた。又目を下に転じると、もう咲納めの(年が明ければ多分枯れるであろう)小菊がさいている。
 冬枯れとか、木枯しの季語に代表される冬の風景も悪くないが、やはり寒いのはいやだ。が、最近の予報では、正月1~2日は当地は最低1℃、最高4~6℃曇り時々雪という。そうなれば初詣どころでなく、終日お屠蘇とテレビで過ごす羽目になりそうだ。
 そんな事で、今日は冬の風景として取り残しの熟柿と咲納めの小菊を掲載。
Photo 青空の熟柿昔は何処の家にも1本はあった柿の木も、最近の戸建て住宅は勿論のこと、古くからの家でも柿の木は少くなった。その少ない柿の木になった実は殆ど取ることもなく放置され、今頃ではカラスさえも食べ残している。この風景は最近の冬の風景の代表的なものとなった。
Photo_2 寒菊。所謂小菊の一種だが、11~12月の寒い時に咲くものを云う。冬菊とも称す。ご覧の通り路傍の草叢に元気よく咲いているが、これはやや日陰の場所で、多分木枯し或いは空っ風が当らないという条件があってのことかもしれない。何れにせよ、今時には珍しい。漢名の菊”究極、最終”の意で、1年の一番終わりに咲くとこから来た名だそうだ。
 当ブログ明日より1週間は正月休みとします。皆様よい御年をお迎えください

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2014年12月27日 (土)

争乱の戦国史174(織豊Ⅳ10): 石田三成の失脚

 秀吉の朝鮮出兵を忠実に推進して大名を動かそうとしたのが、吏僚派(文治派)と呼ばれた奉行達で、その実質的筆頭が石田三成であった。彼は大名領の太閤検地を進め厳封や改易に関わり、朝鮮一次出兵の頃から三成と在陣の武将間には対立が生まれていたが、二次出兵の蔚山籠城戦を機にその対立は決定的となっていった。
 三成らは大名らの報告文書を取次ぎ、又軍目付として大名らの行動の非難報告をする三成の女婿・福原長亜堯らに、朝鮮在陣衆の怒りが向けられた。唯一方的に三成側が悪いのではなく、秀吉の怒りや論功行賞を三成の捏造とする、在陣衆の誤解でも対立が深まっていった。
174b それが1599年閏3月3日(慶長4)の前田利家の死を機に噴出した。福島政則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長らの七人が三成襲撃を企て、大阪で決起したのである。この企てを察知した三成は佐竹義宜に助けをも求め、彼に同道して貰って急ぎ大阪を離れ伏見城内の自分の屋敷に入った。(通説の家康屋敷ではなく、城内の治部少丸が本当)。これを追いかけて七将も伏見まで来たが、家康が調停して七将をを宥めて、10日には三成の安全を保障して居城の佐和山への謹慎を申し渡し、送り出した。三成画像(龍潭寺所蔵)。
 これにより、家康にとって決定的に有利な状況が生まれた。即ち、先に掟を破り大名家と婚姻活計を結び、三成・利家等に非難されたが、家康を牽制するこの両者がいなくなったのである。

 こうして家康はこの騒動を収拾する為、三成の子・重家の成長を待って奉行に取り立てる事を条件に、三成を領地の佐和山に隠退させた。家康が三成を奉行から解任し、閉居させたことで七将の怒りも収まった。そして、五大老筆頭として三成ら文治派と清正ら武断派の争いを仲裁する立場にありながら、豊臣家子飼いの争いを利用して三成追い落としに成功した。
 家康13日伏見向島の自邸を引き払い、伏見城に入り、五大老筆頭の地位を更に高めた。これを以て、世間は家康が「天下殿」になったと受け止めた

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2014年12月26日 (金)

正月天候が気になるが・・・  万両熟す

 正月が近づき、庭掃除など始めると、やはり年の暮気分が出て来る。と同時に、やはり1年の区切りとして、物事だけでなく、気分(心がけや自分の生き方含め)も区切りをつけて、反省したり、来年はどうしょうとか考え、新たな出発にするというのは、いい習慣である。
 ところが、正月は大寒波が襲来とかの天予報があったが、この予報も少しづつずれて来ておるようで気温も当初予報より高い方に修正されてきた。何とか、いい気分で初詣に行きたいものだ。
 この寒い時、万両の実が真っ紅に熟し比較的大きな実を付けている。色づき始めた頃、他家の万両を当ブログに載せたが、我が家の万両も綺麗な実を付けたので、ここに紹介。
Photo マンリョウ(万両)。別名タチバナコウジ。東アジヤ~インドの温暖地に分布。日本では関東以西、四国、九州・沖縄に自生。勿論盆栽、庭植えされている。名前が良いので正月の縁起物とされる。7、8月頃咲いた花後付いた実である。千両と違って、葉の下に付く実で、千両より重いから付いた名前ともいう。
Photo_2 その実。千両より1ヶ月ほど遅く実は色づき,12~翌年3月頃までが見頃。江戸時代より栽培され多数の園芸種が作られた。赤い実が基本だが、白のシロミマンリョウ、黄のキミノマンリョウもある。別名アリオドシという木は一両の名があり、万両、千両、一両と揃えて、「千両、万両、有り通し」と言って、金に困らぬ洒落て植える人も居る。

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2014年12月25日 (木)

第3次安倍内閣発足  アロエが咲いている

 安倍首相が昨夜の衆参両院本会議で、首相指名選挙の結果、第97代首相に選出された。すぐに組閣に着手し認証式を経て第3次安倍内閣が発足。防衛相の交替だけで残り17人は再任で、代わり映えしない。3度首相に選ばれたのは近年では小泉氏以来で、戦後でも7人しかいない。が、一向に選挙前と変わり映えしない、何のための総選挙だったかと批判されている。その中で首相が得たものは民意を更新し、任期の延長だ。うまく軌道に乗らないアベノミクスによる成長戦略を軌道に載せる時間的猶予を貰って果たしてうまく好転させられるか、日本だけでなく、世界中が関心を持って観ている
 うすら寒い世相の中、冬の厳寒がこの2,3日は一休みらしい。その中で咲き始めた冬の花アロエが目立ち始めた。当地では、昔から庭に多いのが柑橘類、次いで柿、そしてアロエである。多分家庭薬としての役割があったのだろう。
 Photo
 上キダチアロエマダガスカルとアフリカ大陸南部が原産地。アロエは世界に200種あると言われるが、日本ではアロエベラとこの写真のキダチアロエ。中国より伝来した時、ロエの中国語(蘆薈)をそのまま名にしており、現在九州、瀬戸内、伊豆、千葉など太平洋添いの暖かい所に多い。キダチアロエは観賞用だが、アロエベラは葉のゼリー部が食用
Photo_2 その花。花は下向いて咲く。冬~春にかけて花の少ない時に咲き、希少価値はあるが、余り美しいものではない。赤色のためよく目立つ。キダチアロエは昔から医者いらずと言われ、内服用として葉のゼリー質は、健胃効果がある。又便秘にも効くという。尚アロエベラは葉肉は外用として傷や火傷に貼り付ける。

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2014年12月24日 (水)

季語・枯木星の時季 南天が鮮やか

 今頃を云う俳句の季語として枯木星というのがある。木枯しが吹くのは曇天或いは雪催いの日だが、冬にもよく晴れて空が澄む日も多い。そんな日の夜枯木の間から夜空の星が見える状態だ。この季語は手近の枯木と遠望の星を組み合わせた珍しい季語だが、余り常用され無いせいか、簡単な歳時記には載っていない
 そんな日々の昨今、昨日珍しく晴れたので歩いてみたが、今頃咲く花は園芸花以外にはない。で、目につくのは実ものばかりで、その中で今日は南天。 Photo
 上ナンテン(南天)。和名の由来は漢名・南天燭の略。先端の葉の間から、花序を出し、初夏に花を付け、晩秋から初冬に球形果実をつける。実が冬の季語。名が「難を転じる」通じる故、縁起物とされ、鬼門に植えることが多く、大概の家に1本はある。稀に太くなった木は床柱に使われ鹿苑寺(金閣寺)茶室に使われている。葉は生薬として堅胃、解熱、鎮咳の作用がある。
Photo_3 オタフクナンテン(お多福南天)。園芸種で、夏頃から紅い葉を付けるが、今頃、それが紅葉し深紅になって、見事である。樹高は50cm位で実が付かず観葉植物として、庭木の下によく用いられる。葉がやや丸い故、オカメナンテンとも呼ばれる。特に耐寒、耐暑性強く、又病害虫にも強い上、日陰、瘦せ地、或は潮風にも強く、萌芽よく刈込にも耐える。全くの初心者向けである。

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2014年12月22日 (月)

争乱の戦国史173(織豊Ⅳ09): 掟違反の家康対三成

 1598年(慶長3)秀吉死後、豊臣政権は五大老と五奉行制の合議制となったが、すぐに分裂が始まった。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際の遺恨から対立していた加藤清正、福島政則らの武断派と五奉行の石田三成中心の文治派不和が表面化した。更にその背後では五大老筆頭の徳川家康が勢力を拡大すべく策動し始めた。
 1599年正月(慶長4)、徳川家康を抑えること出来る唯一の人物・前田利家は病の床に伏していた。利家の死期は近いと見て取った家康は、自らの権力拡大に動き出す。

 生前秀吉が、大名が勝手に婚姻関係を結ぶのを禁じていたに拘わらず、伊達政宗の娘を六男忠輝の妻に迎えようととした。又、異父弟。松平康元の娘を養女にした上、福島政則の子・正之に娶らせようとするなど、秀吉恩顧の大名の露骨な取り込を始めた。
174a 次いで、家康は細川忠興と森忠正に対し、独断で加増の沙汰をした。勝手な加増も明らかに秀吉遺命違反の行為である。当然家康以外の大老、五奉行は激怒し、「五大老からの除名止む無し」として、詰問の使者を送った。使者に対面した家康は縁組や加増に関し「うっかりと違法を忘れていた」と認めた上で、自分は太閤様より大老に任命された。それをいかなる権限で除名するか?と逆に使者をなじって追い返した。これを機に、家康と三成一派の対立は一触即発の事態に進んだ。石田三成像(彦根市)

 1559年3月31日(慶長4)、家康は病床の前田利家を見舞うため大阪を訪れた。五大老除名問題で対立した両社だが、この時和解し、家康はその夜、藤堂高虎の屋敷に宿泊した。石田三成はこれを好機と考え、家康襲撃を計画。小西行長の屋敷に、前田玄以、長束正家、増田長盛ら五奉行の同僚を集め、夜襲を提案。
 しかし、集まった武将たちは藤堂屋敷の警戒が厳重であることを理由に反対した。一方家康の元には三成らと対立する武断派の武将たちが続々と集まっており、市街戦では勝ち目がないと言うのが、彼らの言い分だった。三成もやむなくこれを受容れて夜襲は中止した。

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2014年12月21日 (日)

真冬に満開! 山茶花の紅白

 冬至を明日に迎え真冬のど真ん中。この時期綺麗な花を付けているのは、何と云っても山茶花。依って今日は大きな樹花を一杯付けている山茶花を紹介。山茶花は晩秋から咲始め、翌年3月頃まで咲き続けるが、花の寿命は3-6日位で散ってしまう。なのに次から次へと新しい花を咲かせるのは凄い生命力!日本原産だから日本にあっているのかな。
Photo サザンカの紅。江戸時代、長崎・オランダ商館に来ていた医師・ツンベルクスゼが持ち帰り、西欧で広まった。学名もCamellia sasanquaとなっている。サザンカは冬の花の少ない時期に咲くので、よく俳句に詠まれる「山茶花を雀のこぼす日和かな」(正岡子規)、「山茶花の花や葉の上に散り映えり」(高浜虚子)など。
Photo_3 サザンカの白。山茶花の
必須雑学・剪定の常識。山茶花などツバキ類は新梢の頂部に蕾を付ける。よって、無暗に枝先を切り詰めると、蕾を落してしまい花数が減ってしまう。従って剪定花後直後に行い初夏以降の花芽が付く頃は乱れた枝を落す程度に留める事。生垣など場合は、ある程度樹形が整えられるまで2~3年刈込んで、その後の剪定は上記により行う。

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2014年12月20日 (土)

STAP細胞に決着 柑橘4夏柑

 

STAP細胞の存否の問題は、理化学研究所での検証実験では万能性を持つ細胞を作ることが出来ず、実験は終了した。今回の件は色んな問題を抱えており、一概に非難されるものではないとする意見もある。昔から自然科学の世界では、ありもしない妄想的な仮説や研究結果が存在してきた。そのような中から真実が解明されてきたのであり、今回の結果から、自然科学分野の研究が損なわれることの無く、若い研究者たちの未知へのチャレンジを阻害しないようやって頂きたいと思う次第である。
 冬至も近づき、寒い毎日である。来年の初夏に成熟する柑橘類で、夏柑の記載が残っていたので、今日は夏柑をとりあげた。
Photo ナツカン(夏柑)。別名ナツミカン、ナツダイダイなど。江戸中期、山口・仙崎(青海島)に漂着した文旦系の柑橘の種を、地元の西本於長播種、育成したのが始まり。結果、明治期の武士達に栽培奨励されて、萩の特産物となった。昭和初期に大分で枝変わりの甘夏蜜柑が発見され、夏柑はこの甘夏を云う場合が多い。
Photo_2 果実。晩秋から色づき始めるが、春先まで酸味が強く食用に向かない。その為長らく生食はされなかったが、初夏になれば酸味が減る事が判り、明治以降は初夏に味わえる貴重な柑橘として栽培されるようになった。生食以外サラダに用い、又マーマレードの材料ともされる。外皮をそのまま生かした砂糖漬やゼリーなどが萩市の特産品になっている。

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2014年12月19日 (金)

冬に咲く花 枇杷

 今頃は花を付ける木は殆どないが、枇杷はその希少価値のある花を付けている。
ビワ(枇杷)。学名Eriobotrya japonica
Photo 
原産は中国だが、日本には古代に入ってきたとされ、学名にjaponicaが入っている。日本からはイスレエル、ブラジルに広まったとされる。欧州の地中海沿岸各国で栽培されている。日本では千葉、長崎、鹿児島など温暖地で栽培されている。枝葉は春・夏・秋と年に3度伸びる。
 Photo_2
 Ⅱ花接写
花芽春枝の先端に出来る。花期は11-2月。花を観賞することはないが、観葉植物として鉢植えすることはある。花弁5枚あり、(雄蕊の先端で花粉が着く処)には毛が密に生えている。自家受粉。園芸樹は江戸末期に導入され、茂木や田中の品種が出来た。
Photo_3 果実:花後に出来た
小さな果実。全体小さな毛で覆われている。翌年の3月頃まで成長して大きくなり、5-6月頃熟れて食べ頃となる。果実花托(花柄の先端部)の肥厚した偽果(花床や花軸など子房以外の部分が子房と共に肥大した果実でリンゴやナシと同じ)である。

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2014年12月18日 (木)

争乱の戦国史172(織豊Ⅳ08): 太閤の最後

 秀吉1598年3月15日(慶長3)、醍醐で満開の花見を楽しんだ。後、4月12日に秀吉はもう一度青葉となった醍醐を訪れた。5月から伏見城で病床に伏すようになった。6月27日には朝廷では臨時御神楽を奏して秀吉の平癒を祈った。7月になると、各地の寺社へ平癒祈願が行われた。7月15日、秀吉は諸大名に対して子・秀頼に忠節を誓わせた。
 8月5日には家康・利家と長束正家・石田三成ら5奉行との間に誓書を交換し、秀頼への奉公と法度の順守を誓い、その後も何度も誓紙は記された。死を覚悟し秀吉は、この日家康ら五大老宛に深く秀頼を委託し、遺言状を記した。有名な遺書である。
「秀より(頼)事なりたち候やうに、此のかきつけ候しゅ(衆)としてたのミ申候。なに事にも此ほかにわおもひ(思)のこす事なく候。かしく
 返々m秀より事たのミ申し候。五人のしゅ(衆)たのミ申候たのミ申候。いさい五人の物(者)ニ申しわたし候。なごり(名残)おしく候。以上」

172_3 6歳の秀頼の行く末を案じた真情がにじみ出た文章である。こうして五大老と五奉行に後事が託された。8日秀吉は家康と利家を呼んで後事を頼んだ。
 この間、諸社寺で病気平癒の祈祷が続けられていた。17日、方広寺の本尊として、壊れた大仏の代わりに祀られていた善光寺如来元の地に返されることになった。霊感あらたかな霊仏を勝手に移した祟りと噂されたからである。
 しかし、その翌日秀吉はその波乱の生涯を閉じた。享年63歳。辞世の句は
「つゆとおち つゆときえにし わかみかな なにわの事は ゆめの又ゆめ」(辞世の句大阪城天守閣蔵

 死は秘された。朝鮮からの撤兵を実現する為であった。徳川家康、前田利家ら五大老は直ぐに朝鮮からの撤収に着手。五奉行の石田三成らを博多に派遣し、日本軍の撤退指揮に当らせた。朝鮮に展開していた諸大名は撤退のため釜山集結したが、順天城小西行長軍は海上の退路を封鎖され身動きできず、救援の島津義弘李瞬臣の水軍と海戦し、二百艘の船を失う大被害を蒙ったこの海戦で敵将・李瞬臣も戦死。隙を突いて、小西行長、島津義弘は12月10日博多に帰還し、漸く全軍の撤退が完了したのである。秀吉の死は翌年1月5日に公表された

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2014年12月17日 (水)

猛烈寒波襲来  柑橘3シラヌヒ

 今冬最高の寒さを列島にもたらす寒波に覆われた。そのせいで、北海道は豪雪に見舞われており、交通網の多くが遮断されている。当地福岡では平地での初降雪があって、時折強い風が吹いている。日本海側沿岸の各地は今日から明日にかけ吹雪く予報であり、交通遮断による孤立化が心配されている。災害の起らぬことを念ずる
 昨日に続き、今日も柑橘類で、西南日本に多いシラヌヒ、登録基準に合致すれば、デコポンと称されるミカンを紹介。
Photo シラヌヒ(不知火)。通称デコポンで知られる。1972年、長崎・農水果実試験場で、柑橘類の清見とポンカンの交配で作られたもの。その後、熊本・不知火町に伝わり、不知火品種として栽培され、一定の品質以上のものを1993年デコポンの商標登録が認可された。その後、広島、九州の佐賀、熊本8割の生産を占めるに至っている。
Photo_2 果実3月1日を初出荷の日にし、デコポンの日に制定している。外見上凸が特徴で、果皮が剥き易く、じょうのう膜も薄く、袋のまま食べられ、種も殆どない。日持ちもよく、糖度が高いので、人気がある。結果、栽培面積も増えているケーキ・菓子に利用され、又加工してジュース、ジャム、果実酒に利用されている。

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2014年12月16日 (火)

・・・そして安倍内閣は信任された  柑橘2文旦

 貴重な政治日程と国費を費やしての総選挙。結果現政権が信任されたと安倍首相は胸を張った。が、今の国会議員(与野党とも)は、本当の庶民の気持ちが判ってないという評論家も居る。いや判って居ながら信任されたと強弁しているのかも。
 投票率が53%。その内与党支持票が5割強、よって有権者の3割弱しか現政権を支持してない。「何故投票に行かなかったか」との街頭インタビューで、支持したい党が無い、各党の言っている内容がよく判らず、その是非の判断がつかない。一人ぐらい行かなくても…、等々であり、政治に対する関心の低さが大きな原因だ。戦後70年間「戦争」をしない国の中で生まれ育った人達が大多数を占めている。いわば平和ボケの世代には国民としての権利は主張するが、本来負うべき義務がなんであるか考えたことが無い人達が多いような気がする。これまでの「戦争をしない国」を如何に守るか、を真剣に考えるべきだが、何が欠けているのだろうか。
 今日は昨日に続いて旬の柑橘類文旦
Photo ブンタン(文旦)。標準和名はザボン。ボンタンとも言う。中国南部、台湾が原産地。日本には江戸時代初期鹿児島・阿久根に渡来。漢字をそのまま日本語読みした。ブンタンは自然交雑で、グレープフルーツ、ナツミカン、ハッサクを生み出した。ブンタンには品種が多い。高知の果皮の内側が薄紫のウチムラサキ文旦の原種。日本収量の80%は高知。
Photo_2 下その果実。直径15-25㎝大であるが、これは大きい方である。重さにして50g~2kg。果実の皮が厚く、中の果肉50%位果汁は少なく独特の甘みと風味がある。収穫は年末ごろだが、取立ては酸っぱく、数ヶ月貯蔵の上、酸味を減らして出荷中国では果皮を生薬として利用。咳止めや喉の薬、食欲不振の改善に用いられる。

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2014年12月15日 (月)

選挙結果変わらず  金柑が収穫期

 

 衆院選挙の結果は、与野党比は選挙前とほとんど変わらず、何のための選挙だったか判らない。安倍政権にとっては、アベノミクスの行き詰まりで、打開策が見えない中での、安倍政権の延命策以外の何物でもない。この様な政権の都合、政権のための選挙は本来行えない筈だが、憲法の解散条項の都合の良い解釈での選挙である。先進の欧米諸国では、政権のための解散・選挙は許されてない
 これで批判の多い分野の改変も、大手を振って取り組めるという天下御免の手形を手にしたと思われてはたまらない。争点のない選挙戦、投票率最低の選挙など、国民の民意を問わずの選挙であったと、肝に銘じておいて欲しいものだ。
 寒が深まり、柑橘類が収穫時期に近づいている。今日はその内の一番小さい金柑
Photo キンカン(金柑)。別名キンキツ(金橘)。中国・長江中流原産。日本への渡来は江戸時代、清の船が遠州灘で沖遭、清水港に寄港した際贈られた金柑の砂糖漬けの種から増えたという。果実は食用以外、観賞用の庭木、生垣や鉢植え、盆栽にされる。当地での庭植えは多い。
Photo_2 その実。露地物の果実は1~3月に収穫される。果皮ごと或いは果皮だけで生食するが、果肉は酸っぱいので、果皮のまま甘く煮て砂糖漬け、蜂蜜漬け、甘露煮にする。民間薬として咳や喉の痛みに効果があり、金橘と言う生薬となる。果皮には、ビタミンCの他、ビタミンPが多い。

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2014年12月13日 (土)

争乱の戦国史171(織豊Ⅳ07): 五大老・五奉行制度

 慶長の役で敗戦処理中の日本軍には厭戦気分が蔓延し、国内でも戦費や人的負担が深刻化する中、秀次失脚・切腹が命ぜられた。当然がら大名たちの動揺は大きく、それを抑えるために三成らの奉行衆の秀頼に対する表裏なきこと、太閤の法・置目の順守を誓った5ヶ条の血判起請文が提出された(1595年7月13日(文禄4))。15日秀次自死。20日には織田信雄ら、又秀頼傅役の前田利家、宇喜多秀家らも、三成・長束正家ら奉行衆あてに血判起請文を提出下図7月20日28大名連署の血判起請文)した。家康も毛利輝元・小早川隆景と連署で起請文を提出した。改めて、秀吉・秀頼に忠節を誓わせる必要があったのは、関白抹殺が政権にとっていかに大きな事件であったかを物語る
171 関白政権にとって、関白を欠けば国制上の一切の官職が無くなったという事でもあり、8月に入るとも一度政権の枠組みの組替えが必要となった。家康、秀家、利家、輝元、隆景に上杉景勝を加えた6名連署の「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条が発布された。豊臣政権下で唯一とも言える法令である。
 その内容は御掟大名間の無届婚姻・誓紙の交換禁止公家・門跡・僧侶・神官は学問に専念の事。乗輿・衣装の身分的制限。年貢収取の規定の他、喧嘩・飲酒・側室などに関する規定。乗物御赦免は秀家以外の五大老と老年の公家・長老・大名と病者に限り、他は騎馬とする事などがあり、全支配階級を豊臣政権の支配下に置くものだった
 又、後者の御掟追加公家・門跡は公儀への奉公を専らにせよ。寺社は寺法、社法を守り・・・等々9ヶ条である。これらを合わせ14ヶ条江戸幕府の武家諸法度や禁中並びに公家諸法度に受け継がれ、武家・公家・寺社という支配階級を対象にした法の集大成の意義を持っている。
 これが、後に大老制となり、隆景の死後、五大老制と言われる明確な組織となった。その後、大老の下の奉行衆の制度も整備され、五奉行制が成立し、浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家が秀吉から「日本国中の儀」申し付けられ、五大老・五奉行の10名による合議制ができた。1595年8月3日、豊臣政権が末期の新体制で再発足したのである。関ヶ原までこの体制が続く

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2014年12月12日 (金)

鴨の飛来

 当地には渡り鳥の飛来地として有名香椎浜があるが、今頃は越冬地へ渡る際の休憩地として、色んな鳥が飛来する。先日はヘラツラサギが香椎浜近くの多々良河口に飛来したが、残念ながら私が見に行く前に、更に南(鹿児島)へ飛びたった。
 やはりごく近くまで来てくれるのは鴨の群れである。その鴨を撮って来た。
Photo 飛来した鴨。カモはカモ目カモ科の鳥類の内、雁に比べて体の小さく首が短い。冬場(繁殖期)では雄と雌の色彩が異なるものを云う、とある。但し、カルガモの様に殆ど差が無いものもある為、歴然とした判別は難しい。日本の河川にいるのは、マガモ、コガモ、オキナガカモなどである。
Photo_2 日向ぼこに上がる鴨。確かに水が冷たい時期だが、このように皆連れだって
岸辺に上がって日向ぼこするのも珍しい。余程水が冷たかったのか「鴨葱」とよく言われるが、カモ鍋にはねぎを入れると、臭みが消えて良くなる事から、良いことが重なることを云う。転じて、サギや悪徳商法のターゲットになる事「カモ」と揶揄する。

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2014年12月11日 (木)

人と関わり深い木 ヤツデ

 冬枯れの中で、白い花を咲かせている「八つ手」は昔から、人と身近い存在だった。だからか、花の少ない時期に咲くせいもあるが、俳句などにはよく詠まれている。尤も原産地が日本で、学名Fatsia japonica であり、古くから人の生活に深く関わってきたが、近年は木が大きく場所を取り、八つ手に代わる効能は他にいくらでもあるから、庭木として植えている家は珍しい存在となった。そろそろ花も終わりの時期だから、掲載して置く。
Photo ヤツデ(八つ手)。学名のFatsia は「八」(古い発音で「ふあつ」又は「はっしゅに由来する。20cm以上ある大きな葉は文字通り掌状だが、7つ又は9つ裂で、8つ裂は存在しない(写真上の葉)数が多い、或は末広がりの縁起物、又神秘的の意もある故の名前だという。別名天狗の羽根布団。葉を乾燥させたものは八角金盤という生薬になり、去痰に用いる。但し、ヤツデサポニンという物質を含み、過剰摂取下痢、嘔吐、溶血を起こす。殺虫作用もある故、昔は便槽のウジ虫殺虫用に葉が使われた。
Photo_2 その花。開花期11月-初12月中旬。花は散形花序が集まって大きな円錐花序を形成花弁は小さいが、黄白色でよく目立つ。花の少ない季節で、ミツバチなど昆虫が良く集まる。花の形はご覧の様に二つある。一つは花弁と蕊を沢山つけている白っぽい花(これが雄花)と中程の薄緑の実のような感じのもの(これが雌花)である。又雌雄同体で、先ず雄花となって花を付け、後花が散って雌花となってその時咲いている雄花の受粉をする。これは雌雄同体でありながら時期をずらせることで自家受粉でなく別の花の花粉を受粉するための開花時期をずらせるものであり、誠に神秘的な仕組みである

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2014年12月 9日 (火)

冬の花 日本水仙が咲く

 まさに”冬枯れ”の風景の中で、今からの花・日本水仙が咲いている。スイセンでは一番早く咲く品種で、日本では一番ポピュラーな品種でもある。因みに今から咲く品種を誕生花の順に並べると、1月2日房咲水仙2月9日ラッパ水仙3月4日口紅水仙3月16日糸水仙4月3日笛吹水仙4月16日八重咲水仙とあり、園芸種を含め初夏まで、種々の水仙が咲き続けることになる。
 今日の花は公園の花壇に咲いているもので、きっちり管理されず、前年の球根をそのままにしているので、自然に花茎を伸ばし咲いているものである。
Photo ニホンスイセン(日本水仙)。雪の中で咲くので、別名雪中花平安末期中国より伝来したが、その時漢名の「水仙」をそのまま音読みしてスイセンとなった。尚、学名のナルシサスは「1本の花」の意で、ここからナルシストの言葉はきている。イギリス国花の一つ。本州以南の比較的に暖かい海岸近くに野生化。茎は鱗茎(球根)の中にある。
Photo_2 その花。開花期12月ー2月。スイセンはやや下向きに咲く。葉の間から蕾を付けた花茎が伸び、伸びきると先端に蕾が横向きになり、覆っていた苞を破って花が咲く。雌蕊(シズイ)は1本雄蕊(ユウズイ)6本。6枚に分かれた白色の花びらに見える外側3枚は萼で、内側3枚が花びらである。合せて花被片という。中心に黄色の筒状の花びら(副花冠)があり、中に蕊がある。尚、有毒植物で10gが致死量と言われ、少量でも下痢・嘔吐する。

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2014年12月 8日 (月)

見納めの紅葉

 寒さが続き、艶やかだった紅葉もそろそろ終末に近いようだ。当ブログでは今年1度も紅葉(モミジ)を載せてないことに気づき、慌てて今の紅葉薀蓄(ウンチク)を載せて置く。
Photo 民家の庭木。 もみじの紅葉時期9月頃から北海道の大雪山を手始めに、列島を徐々に南下して行く。見頃は開花より約3週間後とか。時期でいえば、北海道・東北が10月関東から九州は11月~12月中旬。従って当地は見頃を過ぎ始めた時期。
Photo_2 お寺の庭木。 紅葉の原理:緑色の
クロロフィル寒くなり、日照時間減少分解される。また、葉の付根の葉柄に水を通しにくくする組織が出来て、葉で作られた糖やアミノ酸からアントシアンという赤色素作ることにより紅葉するという。樹により出来る物質が異なる為、黄葉、褐葉となる。
Photo_3 自然木の紅葉。 
モミジの語: 上代語の「紅・紅葉する」という意味の「もみつ」(4段活用)が平安時代に「もみづ」(濁音、二段活用に変化)となり、現代はその「もみづ」の連用形である「もみぢ」が定着したという。 

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2014年12月 7日 (日)

争乱の戦国史170(織豊Ⅳ06): 慶長の役

 日明の講和交渉の間も、日本軍は朝鮮南部に在陣し、抗日の義兵と戦っていたが、1596年9月2日(慶長元)講和が決裂すると、秀吉は直ちに朝鮮での城普請の強化、武器兵糧の充実を指示し、大名に再出兵の準備を命じた。
 1597年2月(慶長2)秀吉は第二次の陣立てを定めた。8番まで定め合計12万余の軍勢となり、それを釜山浦城など5ヶ城の2万余を加え14万5百人となった。
 7月藤堂高虎らの水軍は朝鮮水軍を巨済島周辺で打ち破った。ついで、小早川秀秋が総大将として釜山浦に着陣。諸軍を北上させた。しかし、9月忠清道稷山(チクサン)の戦いは激戦となり、日本軍進軍は阻まれた。全軍は慶尚道と全羅道の南部の海岸線近くに城を構えた。この間各所で日本軍は朝鮮軍や義兵と戦った。
170_2 秀吉指示により、11月10日頃より要衝・蔚山に清正在城の城普請が始まった。曲輪がほぼ出来上がった12月下旬明・朝鮮連合軍押し寄せた。兵糧・水が無く投降者も相次いだが、日本軍が海陸より救援に向い、明・朝鮮軍は猛攻に出たが死者多数で、全軍撤退。窮地を脱した日本軍には追撃の余力はなかった蔚山城の興亡(屏風図)。
 これに怒った秀吉は蜂須賀、黒田ら譴責を蒙り黒田を除く4人は帰国謹慎を命じ、逆に三成ら軍目付は加増をうけた。
 こんなことで、秀吉・三成方朝鮮出陣衆の間大きな溝が生まれた。それが結局豊臣政権の墓穴となるのも知らず、在陣衆の苦労も、まして朝鮮の人々の苦難も思いやる事無く、秀吉は3月15日に贅を尽くして醍醐の花見に興じた

 しかし、間もなく病気となり、1598年8月18日(慶長3)、秀吉62歳の生涯を閉じることになる。死を秘して朝鮮からの撤退が勧められた。しかし、明・朝鮮側も死去の情報を得て、日本軍追撃をはかったので、島津勢は泗川城に、小西行長らは順天城にこれと戦った。行長らは李瞬臣の攻勢に苦戦し、島津勢の救援を得て漸く脱出した。こうして12月までには日本軍の撤退がほぼ完了した

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2014年12月 6日 (土)

一時に、花・実・綿(種子)が出来てる風船唐綿

 初夏から咲き始めたフウセントウワタ(風船唐綿)が、今花、実、綿(種子)全部を付けています
Photo 。春から咲き始め、真夏は休み初秋から又咲き続けている。葉腋に散形花序が垂れ下がり気味に着く。蕚片は5枚(写真では見えない)。深く5つに裂けた花冠(大きく広がった花弁のように見える部分)。花に中心には雄蕊と雌しべが組み合わさった「蕊柱(ズイチュウ)」があるが、下向きで判りにくい。
Photo_2 。 (花):蕊柱の先は5角形で5辺に膜状の(これも見えない)、その外側に赤紫色の「袋(副花冠)が5つあって蜜を湛えている
 花が終わると、子房の突起が長く伸び、子房に空洞が出来てホオズキの様な果実となる。フウセントウワタの鑑賞の対象は、この果実なのであるが・・・。
Photo_3 種子(綿毛)。この果実の中にが出来て、真っ白い冠毛がついている。秋になると、果実は茶色になって割れ、中からこの冠毛(綿毛)の付いた種子が露出する。これが風に乗って飛散して行くのである。この冠毛の付いた種子が珍しいので、再掲した次第。 

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2014年12月 5日 (金)

週末強い寒波襲来!の予報  蔦紅葉

 今日から明日にかけ、今冬最強の寒気団が南下し、今冬一番の寒さになるとの予報。こうなると、日本海側にある福岡にはもろに冷たい風が玄界灘から吹き込んでくる。確かに所用あって外出したが、今までになく冷たい風が吹いて、真冬並みの寒さであった。
 こうなってくると、綺麗に紅葉するはずであった蔦紅葉も、ご覧の通り紅葉仕かけで、枯れ始めたか?と思わせる状態となっている。
3 ツタモミジ(蔦紅葉)。ツタはブドウ科ツタ属。これが紅葉したのを蔦紅葉と称す。日本では古来、樹液をアマヅラと云う甘味料として利用した故アマヅラともいう。ウコギ科のキヅタをフユヅタと称すに対し、これはナツヅタとも呼ぶ。アジヤ~北アメリカに15種自生するが、日本にはこのツタのみ自生。別のものに伝わって伸びる故の名前。巻きヒゲの先端に吸盤を持っていて石垣や壁に付着して伸びる。
Photo 模様の入った蔦紅。上の写真では判らぬが、このツタは野生化したものが、道路の擁壁に張り付いているもので、2,3種類の蔦が混じっており、その中にこの様な模様の入ったものもあり、その一枝が伸び出していたもの。

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2014年12月 4日 (木)

冬の古典菊   嵯峨菊

 日本古来の菊にも種々ある。今日は一般に古典菊と称されるもので、嵯峨菊系種の色違い3点をを紹介。
Photo 嵯峨菊。 古典菊について菊は平安時代既に流行しており、律令文化と共に中国から入ったとされる。そして、平安・鎌倉の頃、花弁の変わった嵯峨菊や伊勢菊など独特の菊が出来た。写真はその嵯峨菊系の菊と思われる
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嵯峨菊2。 近世の菊近世中頃以降、菊も大衆化し、江戸時代には流行したのが、肥後菊や江戸菊と呼ばれる種類のもので、花弁の細い、やはり嵯峨菊や伊勢菊の系統の菊である。以上の中輪菊全体を指して古典菊と呼ばれている。
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嵯峨菊3。 嵯峨菊:上・中・下の菊は、色違い乍ら、嵯蛾菊の1品種と思われる。これの改良種の伊勢神宮ゆかりの菊として伊勢菊と言われるものもある。どちらにも似ており、両者の近縁種と推定している。

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2014年12月 3日 (水)

はやぶさ2打上成功!  冬の菊・スプレーマムの一種

 天候不順で打上延期していた「はやぶさ2」はH2Aロケットに載せられ、午後1時22分種子島から打ち上げられた。快晴でもなかった故、すぐ雲に隠れてしまったが、今回が打上最後のチャンスだったらしく、無事成功した事、心よりお喜び申し上げる。宇宙探査の技術は抜きんでて優れており、世界最先端を行っている。諸資源に乏しい日本に於いて、これら頭と腕で科学技術、生産技術等で世界に抜きんでることは喜ばしい限りである。目的達成を完遂する事を祈るのみである。
 冬の菊が今元気に咲いている。今日はその中でスプレーマムと称する園芸菊の1種を紹介する。この花は民家の玄関先に咲いていたものだが、立派に綺麗に開花しており感心したので撮って来た次第である。スプレーマムにはいろんな品種がありこの品種名も判らぬ(キク画像辞典にもスプレーギクの名で各園芸種が記載されている)のでご容赦。 Photo
 上スプレーマム(Spray mum)。元々、日本の菊がヨーロッパやアメリカにたわり、1940年代アメリカで作出されたきくが、1977年代園芸品種に改良され導入されたもである。これら園芸種は草丈30~80㎝、。
Photo_2 下その花。花茎3~6㎝位の菊で、蕾は摘葉しないので、ギッシリと花が付く。Sprayはその様子がスプレーの名前の由来である。ハウス栽培で周年生産は枝先が分かれ、その先に花が付くところから来た名である。花色、花弁の形、草丈の高さなど沢山の種類があり、この品種も入っているが、その名称が判らないでいる。

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2014年12月 2日 (火)

争乱の戦国史169(織豊Ⅳ05): 秀次失脚・切腹

 秀吉、1591年末(天正19)、関白職と聚楽第を秀次に譲り、翌1592年3月(文禄元)には名古屋に赴いた。母の大政所の病気のため、一時戻った際、交通の要衝・伏見に新たな築城を命じた。秀吉の隠居所との名目だった。
 百戦錬磨で老獪な秀吉が1591年には弟と幼児を相次いで失い、結局経験も浅く未熟な甥の秀次(24歳)を後継者に定めることになった。伏見城は聚楽第に近く、新関白を後見或いは監督するに適していると考えての事だったろう。

 ところが、1593年8月(文禄2)側室の茶々(淀殿)に第2子・秀頼が生まれたことで、状況は一変した
 これを機に伏見城政権の拠点として大拡張されることになり、翌年正月から本格的な工事に入る。朝鮮出兵中のものを除いた諸大名に普請役をかけて工事を急ぎ、諸大名も競って屋敷を立てた。秀吉はその12月秀頼を伏見城に迎え、朝廷からは祝いの勅使が派遣された。
 こうなれば秀次の立場は非常に不安定になる。しばらくは秀頼との両立を秀吉も考えたが、結局1595年7月(文禄4)、謀反を企てたという理由で秀次は石田三成・増田長盛らの糾明を受け、関白・左大臣を解任され高野山へと追いやられ、同15日切腹させられた。
 8月2日には子女・妻妾ら39人が京都三条河原で処刑された。近臣も処刑され、聚楽第も破却されて、秀次に関わるもの一切が抹殺された。
 以上が普通の秀次に関する著述であるが、事実は違うという本も多い
169 1563年に来日したポルトガルのイエズス会宣教師・ルイス・フロイス著書「日本史」では「老(関白・秀吉)の甥である新関白(秀次)は若年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった。そして平素、良識ある賢明な人物と会談する事を好んだ・・・」と記している。
 これを実証する話もある。例えば秀次の自領の近江国での近江八幡市の城下町づくりや近江商人の育成繁栄施策などの話である。は琵琶湖から水を引き船を通して城下町を発展させた「八幡町惣絵図」。

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