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2014年12月27日 (土)

争乱の戦国史174(織豊Ⅳ10): 石田三成の失脚

 秀吉の朝鮮出兵を忠実に推進して大名を動かそうとしたのが、吏僚派(文治派)と呼ばれた奉行達で、その実質的筆頭が石田三成であった。彼は大名領の太閤検地を進め厳封や改易に関わり、朝鮮一次出兵の頃から三成と在陣の武将間には対立が生まれていたが、二次出兵の蔚山籠城戦を機にその対立は決定的となっていった。
 三成らは大名らの報告文書を取次ぎ、又軍目付として大名らの行動の非難報告をする三成の女婿・福原長亜堯らに、朝鮮在陣衆の怒りが向けられた。唯一方的に三成側が悪いのではなく、秀吉の怒りや論功行賞を三成の捏造とする、在陣衆の誤解でも対立が深まっていった。
174b それが1599年閏3月3日(慶長4)の前田利家の死を機に噴出した。福島政則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長らの七人が三成襲撃を企て、大阪で決起したのである。この企てを察知した三成は佐竹義宜に助けをも求め、彼に同道して貰って急ぎ大阪を離れ伏見城内の自分の屋敷に入った。(通説の家康屋敷ではなく、城内の治部少丸が本当)。これを追いかけて七将も伏見まで来たが、家康が調停して七将をを宥めて、10日には三成の安全を保障して居城の佐和山への謹慎を申し渡し、送り出した。三成画像(龍潭寺所蔵)。
 これにより、家康にとって決定的に有利な状況が生まれた。即ち、先に掟を破り大名家と婚姻活計を結び、三成・利家等に非難されたが、家康を牽制するこの両者がいなくなったのである。

 こうして家康はこの騒動を収拾する為、三成の子・重家の成長を待って奉行に取り立てる事を条件に、三成を領地の佐和山に隠退させた。家康が三成を奉行から解任し、閉居させたことで七将の怒りも収まった。そして、五大老筆頭として三成ら文治派と清正ら武断派の争いを仲裁する立場にありながら、豊臣家子飼いの争いを利用して三成追い落としに成功した。
 家康13日伏見向島の自邸を引き払い、伏見城に入り、五大老筆頭の地位を更に高めた。これを以て、世間は家康が「天下殿」になったと受け止めた

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