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2014年12月22日 (月)

争乱の戦国史173(織豊Ⅳ09): 掟違反の家康対三成

 1598年(慶長3)秀吉死後、豊臣政権は五大老と五奉行制の合議制となったが、すぐに分裂が始まった。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際の遺恨から対立していた加藤清正、福島政則らの武断派と五奉行の石田三成中心の文治派不和が表面化した。更にその背後では五大老筆頭の徳川家康が勢力を拡大すべく策動し始めた。
 1599年正月(慶長4)、徳川家康を抑えること出来る唯一の人物・前田利家は病の床に伏していた。利家の死期は近いと見て取った家康は、自らの権力拡大に動き出す。

 生前秀吉が、大名が勝手に婚姻関係を結ぶのを禁じていたに拘わらず、伊達政宗の娘を六男忠輝の妻に迎えようととした。又、異父弟。松平康元の娘を養女にした上、福島政則の子・正之に娶らせようとするなど、秀吉恩顧の大名の露骨な取り込を始めた。
174a 次いで、家康は細川忠興と森忠正に対し、独断で加増の沙汰をした。勝手な加増も明らかに秀吉遺命違反の行為である。当然家康以外の大老、五奉行は激怒し、「五大老からの除名止む無し」として、詰問の使者を送った。使者に対面した家康は縁組や加増に関し「うっかりと違法を忘れていた」と認めた上で、自分は太閤様より大老に任命された。それをいかなる権限で除名するか?と逆に使者をなじって追い返した。これを機に、家康と三成一派の対立は一触即発の事態に進んだ。石田三成像(彦根市)

 1559年3月31日(慶長4)、家康は病床の前田利家を見舞うため大阪を訪れた。五大老除名問題で対立した両社だが、この時和解し、家康はその夜、藤堂高虎の屋敷に宿泊した。石田三成はこれを好機と考え、家康襲撃を計画。小西行長の屋敷に、前田玄以、長束正家、増田長盛ら五奉行の同僚を集め、夜襲を提案。
 しかし、集まった武将たちは藤堂屋敷の警戒が厳重であることを理由に反対した。一方家康の元には三成らと対立する武断派の武将たちが続々と集まっており、市街戦では勝ち目がないと言うのが、彼らの言い分だった。三成もやむなくこれを受容れて夜襲は中止した。

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