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2014年12月18日 (木)

争乱の戦国史172(織豊Ⅳ08): 太閤の最後

 秀吉1598年3月15日(慶長3)、醍醐で満開の花見を楽しんだ。後、4月12日に秀吉はもう一度青葉となった醍醐を訪れた。5月から伏見城で病床に伏すようになった。6月27日には朝廷では臨時御神楽を奏して秀吉の平癒を祈った。7月になると、各地の寺社へ平癒祈願が行われた。7月15日、秀吉は諸大名に対して子・秀頼に忠節を誓わせた。
 8月5日には家康・利家と長束正家・石田三成ら5奉行との間に誓書を交換し、秀頼への奉公と法度の順守を誓い、その後も何度も誓紙は記された。死を覚悟し秀吉は、この日家康ら五大老宛に深く秀頼を委託し、遺言状を記した。有名な遺書である。
「秀より(頼)事なりたち候やうに、此のかきつけ候しゅ(衆)としてたのミ申候。なに事にも此ほかにわおもひ(思)のこす事なく候。かしく
 返々m秀より事たのミ申し候。五人のしゅ(衆)たのミ申候たのミ申候。いさい五人の物(者)ニ申しわたし候。なごり(名残)おしく候。以上」

172_3 6歳の秀頼の行く末を案じた真情がにじみ出た文章である。こうして五大老と五奉行に後事が託された。8日秀吉は家康と利家を呼んで後事を頼んだ。
 この間、諸社寺で病気平癒の祈祷が続けられていた。17日、方広寺の本尊として、壊れた大仏の代わりに祀られていた善光寺如来元の地に返されることになった。霊感あらたかな霊仏を勝手に移した祟りと噂されたからである。
 しかし、その翌日秀吉はその波乱の生涯を閉じた。享年63歳。辞世の句は
「つゆとおち つゆときえにし わかみかな なにわの事は ゆめの又ゆめ」(辞世の句大阪城天守閣蔵

 死は秘された。朝鮮からの撤兵を実現する為であった。徳川家康、前田利家ら五大老は直ぐに朝鮮からの撤収に着手。五奉行の石田三成らを博多に派遣し、日本軍の撤退指揮に当らせた。朝鮮に展開していた諸大名は撤退のため釜山集結したが、順天城小西行長軍は海上の退路を封鎖され身動きできず、救援の島津義弘李瞬臣の水軍と海戦し、二百艘の船を失う大被害を蒙ったこの海戦で敵将・李瞬臣も戦死。隙を突いて、小西行長、島津義弘は12月10日博多に帰還し、漸く全軍の撤退が完了したのである。秀吉の死は翌年1月5日に公表された

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