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2014年12月13日 (土)

争乱の戦国史171(織豊Ⅳ07): 五大老・五奉行制度

 慶長の役で敗戦処理中の日本軍には厭戦気分が蔓延し、国内でも戦費や人的負担が深刻化する中、秀次失脚・切腹が命ぜられた。当然がら大名たちの動揺は大きく、それを抑えるために三成らの奉行衆の秀頼に対する表裏なきこと、太閤の法・置目の順守を誓った5ヶ条の血判起請文が提出された(1595年7月13日(文禄4))。15日秀次自死。20日には織田信雄ら、又秀頼傅役の前田利家、宇喜多秀家らも、三成・長束正家ら奉行衆あてに血判起請文を提出下図7月20日28大名連署の血判起請文)した。家康も毛利輝元・小早川隆景と連署で起請文を提出した。改めて、秀吉・秀頼に忠節を誓わせる必要があったのは、関白抹殺が政権にとっていかに大きな事件であったかを物語る
171 関白政権にとって、関白を欠けば国制上の一切の官職が無くなったという事でもあり、8月に入るとも一度政権の枠組みの組替えが必要となった。家康、秀家、利家、輝元、隆景に上杉景勝を加えた6名連署の「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条が発布された。豊臣政権下で唯一とも言える法令である。
 その内容は御掟大名間の無届婚姻・誓紙の交換禁止公家・門跡・僧侶・神官は学問に専念の事。乗輿・衣装の身分的制限。年貢収取の規定の他、喧嘩・飲酒・側室などに関する規定。乗物御赦免は秀家以外の五大老と老年の公家・長老・大名と病者に限り、他は騎馬とする事などがあり、全支配階級を豊臣政権の支配下に置くものだった
 又、後者の御掟追加公家・門跡は公儀への奉公を専らにせよ。寺社は寺法、社法を守り・・・等々9ヶ条である。これらを合わせ14ヶ条江戸幕府の武家諸法度や禁中並びに公家諸法度に受け継がれ、武家・公家・寺社という支配階級を対象にした法の集大成の意義を持っている。
 これが、後に大老制となり、隆景の死後、五大老制と言われる明確な組織となった。その後、大老の下の奉行衆の制度も整備され、五奉行制が成立し、浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家が秀吉から「日本国中の儀」申し付けられ、五大老・五奉行の10名による合議制ができた。1595年8月3日、豊臣政権が末期の新体制で再発足したのである。関ヶ原までこの体制が続く

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