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2014年12月 2日 (火)

争乱の戦国史169(織豊Ⅳ05): 秀次失脚・切腹

 秀吉、1591年末(天正19)、関白職と聚楽第を秀次に譲り、翌1592年3月(文禄元)には名古屋に赴いた。母の大政所の病気のため、一時戻った際、交通の要衝・伏見に新たな築城を命じた。秀吉の隠居所との名目だった。
 百戦錬磨で老獪な秀吉が1591年には弟と幼児を相次いで失い、結局経験も浅く未熟な甥の秀次(24歳)を後継者に定めることになった。伏見城は聚楽第に近く、新関白を後見或いは監督するに適していると考えての事だったろう。

 ところが、1593年8月(文禄2)側室の茶々(淀殿)に第2子・秀頼が生まれたことで、状況は一変した
 これを機に伏見城政権の拠点として大拡張されることになり、翌年正月から本格的な工事に入る。朝鮮出兵中のものを除いた諸大名に普請役をかけて工事を急ぎ、諸大名も競って屋敷を立てた。秀吉はその12月秀頼を伏見城に迎え、朝廷からは祝いの勅使が派遣された。
 こうなれば秀次の立場は非常に不安定になる。しばらくは秀頼との両立を秀吉も考えたが、結局1595年7月(文禄4)、謀反を企てたという理由で秀次は石田三成・増田長盛らの糾明を受け、関白・左大臣を解任され高野山へと追いやられ、同15日切腹させられた。
 8月2日には子女・妻妾ら39人が京都三条河原で処刑された。近臣も処刑され、聚楽第も破却されて、秀次に関わるもの一切が抹殺された。
 以上が普通の秀次に関する著述であるが、事実は違うという本も多い
169 1563年に来日したポルトガルのイエズス会宣教師・ルイス・フロイス著書「日本史」では「老(関白・秀吉)の甥である新関白(秀次)は若年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった。そして平素、良識ある賢明な人物と会談する事を好んだ・・・」と記している。
 これを実証する話もある。例えば秀次の自領の近江国での近江八幡市の城下町づくりや近江商人の育成繁栄施策などの話である。は琵琶湖から水を引き船を通して城下町を発展させた「八幡町惣絵図」。

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