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2014年11月25日 (火)

争乱の戦国史168(織豊Ⅳ04): 文禄の役 講和不調

 順調に朝鮮半島に侵攻した倭軍は朝鮮八道を支配下に入れたが、1592年9月半(文禄元)、咸鏡道において抗日の義兵の決起が始まった。これら義兵は両班(ヤンパン)と呼ばれる地主中心の高級官僚輩出の特権的身分階級層だった。彼らは日本軍に協力的な朝鮮官吏を討ち、日本軍が守る城を攻撃した。明軍の救援の報が決起の輪を広げた。結果、翌1593年正月(文禄2)、北道の城を放棄、2月末にはすべての軍勢を撤収して漢城に引き上げるまで追い込まれた。
 又、全羅佐道水軍節度使・李瞬臣(リスンシン)は船と武器を充実させた水軍を率いて5月7日に巨済島の藤堂高虎の水軍を撃破同月末亀甲船を用い泗川の海戦で日本水軍に大きな打撃を与えた。以降日本水軍を悉く打ち破り、日本軍水上補給路に壊滅的な打撃を与えた。

 明の救援軍1592年6月朝鮮に入り、当初小西行長に平壌で敗れたが、救援強化して、1593年正月(文禄2)、明軍4万、朝鮮軍1万で平壌の小西・宗軍を攻囲、激しい戦闘の末撤退し、黄海道にいた黒田長政軍と共に、小早川・吉川軍のいる開城へ撤退、更に1ヶ月後漢城へ引き上げた
 漢城に撤収した日本軍は、南下する明軍を1月末漢城北方で破る等したが、戦局は一進一退、兵糧は細り士気は低下していった。既に和議を提案されていた小西行長は講和交渉に持ち込んだ。結果、和議を進めることになり、4月18日日本軍は漢城から撤退、石田三成ら3奉行と行長は明の使節を伴い、5月15日肥前名護屋に帰着した。
168 6月28日、秀吉は7ヶ条の講和条件を示したが、朝鮮での戦争の実態を理解しておらず、明・朝鮮からの和平願出との認識であって、明・朝鮮には受け入れられるものではなかった。翌29日には彼らは帰国の途に就いた。
 一方小西行長が家臣を偽りの講和使節として明皇帝の元に派遣。明皇帝から秀吉を「日本国王となす」との文書と印章・冠服を持った冊封使の派遣を決めた。1595年1月末(文禄4)、北京を発った使節は翌1596年9月1日(文禄6)大阪城で秀吉に謁見。が、秀吉は自分の講和条件でない事に激怒し講和は破綻した。

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