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2014年11月21日 (金)

争乱の戦国史167(織豊Ⅳ03): 文禄の役 開戦

 第一軍1592年4月13日(文禄元)に釜山城、14日東萊城(トンネジョウ)を攻略して北上し、27日には忠州で申砬(シンリブ)の軍を破り、第二軍加藤清正軍と合流した。この間、清正軍の中にいた武将が秀吉に大儀なしとして朝鮮側に投降するという事件があったが、続々と上陸した日本軍は、防備体制が十分でなかった朝鮮側に比し戦争技術も武器も勝っており、快進撃を続けた。5月3日朝には第一軍宗・小西軍、第二軍加藤・鍋島軍が都の漢城を占領し、続いて宇喜多秀家・黒田長政が入城した。忠州の敗戦を聞いた国王は都落ちを決意し、4月30日に都を脱出、平壌へと逃れた。
167jpg この漢城占領では小西行長と加藤清正の間で先陣争いがあって、清正が漢城落した報告を2日付で秀吉に送っている。名護屋でこの報告を受けた秀吉の喜びは大きかった。早速清正に16日付で9ヶ条の命令を発している。
 日本軍に乱暴狼藉の禁止を徹底させよ、都に町人を、村に農民を還住させよ、都には秀吉の馬回りと番衆だけを置く事とし、他の大名の軍勢は都の外回りにおけ、兵糧を蓄えよ、秀吉の宿泊所と道路の普請を行えというものであった。
 漢城占領後、諸軍は分かれて朝鮮八道に展開し、全国支配下に入れて明への侵攻の道筋を確保し、兵糧を備蓄することを任務とした。秀吉側では一国を直轄領とし、八道に割り付けた大名を代官とする構想であったが、大名たちはそれを自分の知行だと思って支配の実績を上げようとした。

 5月28日には臨津江(イムジンガン)の戦いで朝鮮軍を破り、翌日には開城をおとした。小西・黒田軍6月15日、国王脱出後の平壌に入城。一方清正は7月の終わり頃には会寧(フェリヨン)まで進み二人の王子を捕えた。清正と鍋島直茂は、咸鏡道南部か中部にかけての要地に配下の武将在番として配置し、直茂自身も中間の咸興(ハムフン)に本陣を置いた。
 日本軍は苛政を除き、善政をしいて民を救おうとしている、帰服するものには保護を加え、抵抗する者は処罰する。だから村・家に還住して、農耕や家業に励め、能力に応じて職を授けようなどと書いて知らせ、支配体制を敷こうとした

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