« 冬めいて 柚子も色づく | トップページ | GDP -1.6%と沖縄知事戦の衝撃  »

2014年11月17日 (月)

争乱の戦国史166(織豊Ⅳ02): 唐入り準備

 

  1587年(天正15)島津を服属させ九州平定をした秀吉は、出仕してきた対馬の宗義調(ヨシシゲ)、義智(ヨシトモ)父子に対し、朝鮮国王が日本に服属・出仕すべく取計らえと命じた。耕地少なく必要物資を朝鮮との交易で成り立っていた宗氏が、秀吉の服属要求を朝鮮に伝えることが出来ず、秀吉の全国統一の祝賀使節の派遣を要請し、交渉難航の末、漸く1590年3月(天正18)使節派遣にこぎつけた
 正使・黄允吉(ファンユンギル)一行が3月漢城を発ち、7月京都着。11月聚楽第で秀吉に謁見。朝鮮国書は秀吉の日本統一を賀すものであったが、秀吉はこれを服属の使節と思い込んでいた。結果、宗氏は朝鮮に対し明征服の先導役を受容れさせる役目を負った。しかし、使節に同行した宗義智の使僧・景徹玄蘇(博多崇福寺住持)は無理な要求をすり替え、明を攻める為の道を借りたいと要求した。が、朝鮮はこれを拒否した。
166 本来、朝鮮との国交は明国への通商仲介、対朝鮮貿易の拡大、貿易港開港を求めるものであったが、東アジヤにはそういう国交は存在してない。中国を宗主国とする入貢の他の外交体験のなかった朝鮮側は対応の術を知らなかった。名護屋城復元模型(名護屋城博物館)
 このような事情を顧慮することなく、秀吉は大陸出兵計画を進めた。1951年8月(天正19)愛児・鶴松を失った悲しみを振り払う如く、入明の供奉僧を選定し、聚楽第と京周りの直轄領を甥の秀次に譲った。そして来年3月1日出兵の準備を大名に、そして名護屋城の普請を黒田長政・小西行長・加藤清正に命じた。秀次同年12月関白となり、秀吉太閤となって、大陸侵攻の態勢を整えた。
 秀吉は約30万の軍勢を、大陸出兵の衆と名護屋在陣衆に分け、前者は九州・四国・中国地方の大名と九鬼氏の水軍を当て、後者は東国の大名で構成。そして京都の関白秀次の元には近畿・東海地方の大名を配備し、全国臨戦態勢をしいた。
 1592年3月13日(文禄元)、大陸渡海の軍勢15万9千人9軍に分けた陣立書を発表。第1軍の宗義智・小西行長が朝鮮を説得すると一足先に出発したが、朝鮮は応じる訳がなく、結局4月13日対馬の大浦を発した7百余隻の彼らの兵船は同日夕方釜山浦(プサンポ)に到着した。此処に秀吉軍は文禄の役に突入する

|

« 冬めいて 柚子も色づく | トップページ | GDP -1.6%と沖縄知事戦の衝撃  »

戦国時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/60667293

この記事へのトラックバック一覧です: 争乱の戦国史166(織豊Ⅳ02): 唐入り準備:

« 冬めいて 柚子も色づく | トップページ | GDP -1.6%と沖縄知事戦の衝撃  »