争乱の戦国史165(織豊Ⅳ01): 千利休自刃
今回より織豊時代第四期とします。1591年の秀吉の絶頂期を境目に秀吉の威勢は衰微し始める。織豊期終焉の章である。
1951年2月28日(天正19)の早暁、上杉景勝麾下の軍兵3000が取囲む京都・葭屋町の屋敷で、千利休は茶の湯の支度を整えていた。傍らには脇差が一振り。上杉家中の茶の弟子・岩井備中守から、切腹の沙汰あるを聞いて検使到着を待っていた。秀吉からの検使は尼子三郎左衛門ら3人。利休は3人を茶室・不審菴に招き入れ茶を振舞い、自らも一服した後従容として切腹の座に就いた。
千利休は、1522年(大永2)、堺に納屋衆の長男として誕生、幼名与四郎。当時の堺は富商が自治を行う国際商業都市で流行の茶の湯も盛んであった。与四郎も年少より茶の湯に親しみ、19歳で武野紹鴎に入門。侘び茶を学び、宗易と名乗る。
次第に名声を高め、今井、津田と共に織田信長の茶頭を務めた。信長没後、宗易はその後継者・秀吉の茶頭となり急速に頭角を現す。1585年(天正13)、秀吉の禁裏茶会で後見役を勤め、正親町天皇より「利休」居士号を勅賜され、以降1587年10月(天正15)の北野大茶会はじめ、秀吉の行う茶会を取り仕切った。
一方で利休の政治力は「茶の湯の密室性、寄合性」という極めて政治的な舞台で、武将や京・堺の商人などを招いての威令の浸透によると言われる。 しかし、何故にこの秀吉と利休の間に亀裂が入ったか。利休が茶器の目利きや高値の売買ををする事や、大徳寺山門に自分の木像を置いた事を不遜僭上の行為と怒りを買ったなど謂われるが、利休自身の書き物は一切残っておらず、想定されるのは、1591年2月13日利休が秀吉に堺への退去を命じられる直前、秀長が病没しており、利休の政治的立場が急速に悪化し、石田三成・前田玄以ら若手の派閥の台頭があって、彼らによる弾劾が激しくなって行ったという説が有力である。
1591年2月25日、大徳寺の利休の木像が秀吉に召上げられ、聚楽の大門の戻り橋で磔にされた聞き、掲図の「我が人生70年、この宝剣で祖仏もともに断ち切る」との遺偈と、「提げる我が得具足の一太刀今この時ぞ天に抛つ」という辞世の和歌をしたためた。かくして28日自刃して果てたのである。享年70。
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