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2014年11月 8日 (土)

争乱の戦国史164(織豊Ⅲ26): 家康の関東移封

 小田原城落城目前の1590年6月28日秀吉は石垣山の陣屋で、家康に「小田原城もやがて落ちる。その際は、北条氏の領国を全部差し上げる。代りに、今の領地3国は返上して貰う。東の江戸を本拠地にすればよい」と言い渡した。そして10月には家康は江戸入りをした。
 当時、家康は天下人・秀吉最大のライバル。それで、家康を京都から遠ざけ旧北条領6ヶ国の他、256万石を与えた。その秀吉の意図を昔の定説では、「従来の北条氏に帰属した人々は、土地不案内の家康に従わず、一揆が起るだろう、その隙に攻めれば徳川は瓦解する」と見ていたという「家康いじめ」が一般論
164 ところが、「家康いじめ」定説に対し、実は家康が望んだことという説がある。即ち、「家康は新たな領地の中心地に江戸を選んだだけ」という岡本友彦である。江戸は既に太田道灌が江戸城を築き、北条氏直の頃には関東支配の拠点だった。また、当時の江戸は東国水運の結節点で、伊勢・熊野から品川にたどり着く太平洋海運と銚子や関宿から浅草・葛西に通じた利根川水系という重要な水系を結びつける絶好の港が江戸だったというのである。江戸湾の古地図(都立中央図書館蔵)。
 これに対し、「家康は異常なほど強い上方志向があった」という鈴木理生説がある。即ち江戸入りから没するまでの26年間、家康は京都・伏見や駿府で多くの時間を過ごし、江戸にいた期間は延べ約5年1ヶ月に過ぎないという。これは彼の最終目標が豊臣勢力の根絶であり、上方での最前線指揮の必要があったからだ。まさに本拠地・江戸無視の行動である。

 各論共、夫々の論拠だが、秀吉は「家康いじめ」どころか、江戸の重要性を知っており、天下統一に向けて残された最後の課題「奥州制圧」の拠点つくりを狙って側近中の側近・家康を江戸に送ったと、上記鈴木氏は見ている。また、天下人・秀吉の前では、大名の身分は大変不安定で、いつ国替えがあるかもしれず、家康が「江戸入り」直後、後の大江戸を目標に置いて、手を打ったとは考えられない
 何れも、家康の江戸入りは、秀吉の「家康いじめ」では説明できない点で一致している。それは既にこの時、江戸は政治・経済の要衝であったという事だ

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