« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

2014年10月31日 (金)

遂に鷹が日本一!  ローズヒップを発見

 ヤッタァー、遂にホークスがシリーズを制した。レギュラーシーズンも、CSシリーズも最終戦でやっと勝利を決めてきたホークスが、日本シリーズをそう簡単に制する事はないだろう、又もや最終戦か、と思っていた。が、第2戦の甲子園での試合、黄色一色のトラの中で、あわや完全試合かと期待させるような、若武者・武田投手の見事な投球。そしてそれを援護した打線。これがこのシリーズの転機だった。
 ホームグラウンドに帰ってきたホークスは決して楽な試合ではなかったが、勝つ事一点に全ナインが集中して、虎をねじ伏せた。おめでとう!選手諸君と監督・スタッフの皆さん。残念ながら、秋山監督引退との事。しかしいいはなむけを贈ることが出来てよかった。博多の町は優勝セールでごった返している。
 今日は珍しいローズヒップ(薔薇の果実)を撮って来たので紹介。
Photo バラの実。バラの実をローズヒップと称するが、それを見つけた。そもそも日本はバラの自生地として世界的に知られ、品種改良に使われる3種類のバラは日本原産である。だから古くからうまら、うばらの名で呼ばれ、常陸国の土賊征伐に使われたウバラギ(茨城)が現茨城県県名由来となった
Photo_2 ローズヒップ。バラの実のことで、ロ-ズヒップティー愛好家には貴重なものだ。写真のは径1-1.5㎝位の大きな実でリンゴの小型だ。園芸種にはこの実はつきにくく、野生種に近い品種にしか生らない。この実が生ると木は弱るので、花を重視する場合は摘果する。逆にローズヒップティー採取目的なら、春一番の花からの実を採取する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月30日 (木)

争乱の戦国史162(織豊Ⅲ24): 北条氏直降伏

 北条氏は小田原城を20万余の豊臣軍に包囲されて、完璧な籠城態勢をを保ったが、3ヶ月近くになるに及んで、老臣・松田憲秀の内応に続き、下野の皆川広照も兵百余人を率いて小田原城を出て降伏など、精神的団結は崩壊し始め城中は互いに疑心暗鬼に状況となって、次第に和議へ傾き始めた
 他方、信濃・上野路を進んだ利家・景勝・真田昌湯幸らは上野松井田城を囲み、城将大道寺政繁を降し、上野諸城を落した後、武蔵鉢形城を囲んで1590年6月14日(天正18)これを落とし23日には武蔵八王子城も落とした。
162_2 6月24日、秀吉は黒田孝高(如水)らに小田原細田口守将・太田氏房のすすめで太田親子に和議を説かせ、又同日小田原・韮山を堅守した北条氏規にも家康の勧めで小田原に来て和議を説いた。そして最後の小田原評定が始まったが、26日、秀吉は石垣山の陣(一夜城)より、鉄砲を斉射、威嚇した。もはや評定は許されず、29日、氏直親子は織田信雄のもとに和議調停を依頼した。こうして1590年7月5日(天正18)天下一統を成し遂げんとする秀吉の前に、3ヶ月余り抵抗を続けた氏直も降伏することになったのである。
 そして、石田三成軍の3ヶ月余りに及ぶ水攻めを凌いで最後まで残った忍城(埼玉・行田市)は7月16日開城した。

 氏直は家康の娘婿という理由で、助命され高野山に追放。戦争責任は父・氏政、その弟氏照(八王子城主)と老臣大道寺政繁・松田憲秀に負わされ切腹させられた。首は京都に送られ一条戻橋に晒された。戦国大名・北条氏の滅亡である
 そして同時に、秀吉の天下統一が実質的に成就したのであった。秀吉は北条領を家康に与えて江戸に入れ、家康の旧領5ヵ国を収公した
 豊臣軍の戦争能力は北条の想定をはるかに超えていた。それを読み誤った不明と情報不足が命取りとなった。勝つ可能性はなかったのである。しかし、敗戦は北条の領国支配が古かったり矛盾を持っていたからではない。むしろある時期、信長や家康より体系的な支配体制築いていたと言われる。そうした地域権力に、秀吉は天皇と関白という中央の論理を以て屈服を迫った。北条はその論理に従属することを拒否したのであった。とする池上裕子氏の論がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月29日 (水)

川内原発再稼働を市議会同意  サボテンが咲いていた

 鹿児島・薩摩川内市議会は臨時本会議で、川内原発の再稼を求める陳情を採択し、これを受け、市長は再稼働への同意を表明した。今後県議会の采決を待ち知事が最終決定をする運びとなるが「川内市にとっての原発の是非」と今後の日本の原発は如何あるべきかという懸題とは判断の根底が大きく乖離している。川内市にとっては従来の補償金等々の収入が無くなれば、特別な産業を興す展望もない。安直に明日の生活を守る手だてが無い限り問題があっても頼らざるを得ない。本当こんな方式で原発の可否を決定していってよいのかと疑問に思う。本当は、責任を持って是非に答えられる資格のあるのは、実際に被災した福島の人達だけでないのだろうかという気がしている。
Photo ウチワサボテン(団扇サンボテン)。ウチワサボテン亜科は南北アメリカには15属ほどある由。その内の和名・団扇サボテンはオプンティア属に約200ある種の1つ平たい茎節を持つことから、団扇の名が付いた。再生力強く世界侵略的外来種ワースト100に指定。が、日本での繁殖はない。食用になるほか赤色系の色素に重要の由。
 Photo_2
 下その花。6月頃から茎の縁の刺座に花芽をつけ、秋ごろまで花を咲かせる花色が多いが、燈色もある。花後は赤紫色の果実を付ける。尚、メキシコで栽培される食用のノパール食物繊維が多く不容性食物繊維消化器系の清浄をしてくれるので、胃腸を健常にし、又可溶性の食物繊維コレステロール値を下げ、且つ悪玉も善玉に変える力が強いという。
 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年10月28日 (火)

紅葉の先駆か 花水木

 少しは紅葉も始まったかと見て歩いたが、近辺の銀杏や山紅葉は少し黄色くはなっているが、紅くない。唯一、”紅葉”したのは花水木だけであった。
Photo 紅葉の花水木。何処の花水木も既に紅葉はしているが、環境による差なのか、綺麗に紅葉したのと、紅葉しつつ枯れかかっているのもある。新しい住宅街には、まだ樹は小さいが街路樹として植えてあるところもあった。大きく成長すれば見事な街路樹と成ろう。
Photo_2 花水木の果実。もう既に果実の時期は終わったのか、パラパラと付いているだけで、それも葉に隠れ、見事に生った果実を期待したが残念であった。この実は不味いそうで、小鳥にも食べられないそうだが、美しい紅である。
Photo_3 拡大図。花は4枚の花びらに見えるのは総苞片で、真中のちいさなのが花だ。故に果実はこの部分にかたまって実がくっ付きあって生る(核果という)。この写真はその内残った一つの実だ。実の付根にブツブツが在るがこれが実の跡。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月27日 (月)

面白くなりそう日本シリーズ  ツワブキ満開

 CS以来無敗を誇った阪神が遂に黒星!と言って喜ぶと、関西の阪神ファンに怒鳴られるかもしれない・・・。が、相手は最終戦でももたつきながらようやく優勝を決め、CSでも最終戦でようやく勝てたソフトバンク・ホークス。それが日本シリーズで緒戦はスタンリッジでもものの見事にやられたほどの阪神相手に、アーァ又もやもたつくかと思いきや、なんとあの若武者・武田が踏ん張ったではないか! これで次回からホームグラウンドに帰っての3連戦がものすごく楽しみになって来た。今季限りで引退の秋山監督の見事な采配での勝ちっぷりを堪能したいものだ。
 秋が深まり、今ツワブキがあちこちで満開。特に今年は民家の庭に沢山咲かせるのが流行っているのか庭を黄色に染めてる家も多い
Photo ツワブキ(石蕗)。単にツワとかイシブキとも言う。艶葉蕗(ツヤバフキ)から転じた名。名の通り葉に艶がある。福島、石川以西、琉球諸島まで自生。低地や山野の日蔭或いは海岸に多い。地下に短い茎があって、葉だけが地上に出る。園芸植物として日本庭園に使われる。長い葉柄は蕗同様に食用となり、九州名産「キャラブキ」となる。
Photo_2 その花。花期10-11月。葉の間を抜けて花茎を伸ばし、その先端に散房花序をつけ、花径5cm位の黄色い花を数輪つける。花後はタンポポの様な綿毛のようなが出来て、風に乗って飛ばされ散ってゆく。ツワブキは民間薬として茎や葉を打撲や火傷に用いられ、人の生活に密にかかわって来た植物。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2014年10月25日 (土)

争乱の戦国史161(織豊Ⅲ23): 伊達政宗服従

 伊達政宗1589年(天正17)、秀吉の発した東北惣無事令に反し、会津の蘆安氏を滅ぼし会津領をほぼ手中に納め(摺上原の戦い)、奥州の66郡の内36郡に亘る広大な地域を支配する大大名に成長していた。
 ところが得意満面の1590年、小田原攻めを開始していた秀吉から、惣無事令に反し、私戦で奪った会津を返上して上洛謝罪せよと、小田原参陣を促してきた。同時に北条氏直からも密使が訪れどちらに就くか、態度を決する必要に迫られた。
161_5 浅野長政からも書が来て、もはや躊躇できず、政宗は止む無く秀吉帰属を決めた。が、小田原出発直前に母の保春院(山形城主・最上義明の妹)が、兄の最上義光と結託し、政宗の弟・小次郎擁立を画策している事が発覚。小田原参陣の前に家中統一を図り反対派粛清の必要が生じ、政宗は弟・小次郎を刺殺し、母を追放して政宗体制を確立してから小田原へと向かった1950年頃の伊達政宗の版図

 結果、小田原着陣6月5日と大幅に遅れたため、秀吉は怒り、底倉山中に留め置き、利家、長政らに政宗の非違を詰問させた。しかし、政宗は是によく陳弁したとの報で、秀吉は会津を没収するだけで70万石余の本領は安堵した。
 そして秀吉が政宗を引見したのは、小田原到着後の4日目の6月9日。家康・利家ら諸将が居並ぶなか、政宗は白の死装束で秀吉の前に出たといわれる。惣無事令違反を認め謝罪・服属の意志を表す形であったろうか。しかし、政宗は臆せず立派な態度で、秀吉も会津没収以外は、知行地領有は認め、奥羽支配のために有用な人物と認められたのである。
 尚、引見を終え退出しようとした時、秀吉は政宗を呼び止め、杖で小田原城を指攻城の方略を示した。政宗も忌憚なく輝くばかりの才知で、自分の意見を述べたので、並み居る人々の称賛をえたという。時に政宗、弱冠24歳であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月24日 (金)

菊薫る季節 コギクが満開

 普通の民家の庭には、大輪や懸崖などは殆どなく、小菊を花壇や鉢植えにしているの見掛ける程度である。最近は洋花流行で、菊を植えてる庭も少なくなった
Photo コギク(小菊)とは花径が1~3cm位を云う。懸崖や菊人形に使われるものである。
 日本で、菊栽培熱が高まったのは江戸前期。育種が進み多くの品種が出来た。菊人形が出現したのもこの頃。幕末には本家の中国に逆輸出された。明治・大正期に発展して古典園芸植物の一つとなった。
Photo_2 短日性植物なので、電照法により切り花用として周年出荷される。バラ、カーネーションと共に生産高の多い花卉となっている。日本での栽培が多いのは、稲の栽培プロセスとよく似ているせいとの説もある。日本には350種が自生し、帰化種が150種野菊シロバナタンポポ、セイヨウタンポポが含まれる。
Photo_3 菊の御紋十六八重表菊天皇及び皇室を表す紋章である。他に菊があしらわれたものには、50円硬貨、パスポート、勲章。在外公館の玄関、国会議員の記章、天皇を祀る神社等あり桜と並んで国花に準じた扱いを受け、国章に順じており、法的には国旗に順じている為商標等には登録できない

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年10月23日 (木)

蔦紅葉で秋の山を描いている!

 庭の資材を売る店の駐車場から、ふと前を見上げると、白壁の大きな二階家の二階部分の壁に下図の蔦が這わせてあった
Photo (1)。写真は上から順に左から右へつないでみてほしい。そうすると3枚の写真がつながって見えるでしょう。すると、一番左(上)と一番右(下)は夫々山形に這わせてあるのがお判り頂けるでしょう。そして真中(中段)二つをつなぐ低い山でしょう。
Photo_2 (2)。蔦の茂り具合から見て、この家の主がわざとこの形に伸ばしては這わせたので、山の部分は薄い茂りだが、形は山だ。この様に蔦を使って、白壁に山を描くことを発想し、それを実施して、且つ丁度蔦が紅葉し始め、紅葉の山を描いたわけである。
Photo_4 (3)。唯、この壁との間に1階部分は塀があり、また建材店の商品(物置など)があって、二階部分の下の方が隠れたりするので、1枚の写真に写せなかったことが残念である。仕方なく3分割にしたが、余りにも奇抜な発想と若干ダジャレ気味の遊び心に感心した。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年10月22日 (水)

花散る安倍内閣  秋の花・コバノセンナ

 秋が深まるこの頃、花の少ない時期に折角咲いた安倍内閣の二輪が儚くも散ってしまった。大臣への選出には相当”身体検査”が行われて居る筈がどうしてこうなったのか。内閣、或は自民党の増長している部分がないか。又、閣僚だから許されないが、一般代議士では危ない人が結構多いとか。代議士たる者、倫理的金銭的に不浄があってはいけない。心してほしいものである。
 今の時期、花が少ないが、遠目にもよく判るのが、今日のコバノセンナ。元々南方系の花だから沖縄、奄美には多く、九州でも宮崎には沢山植えられている。近畿以北では屋外越冬も難しいので、少ないと思えるので、ここに掲載。 
Photo_4 コバノセンナ(小葉の旃那)。マメ科センナ属。属名Sennaはアラビアのsana(耳)から来ている。莢が耳の形に似る故の名。原産地は南米。九州、沖縄では公園樹としての植栽が多い。岡山以西では野外で越冬。葉が偶数羽状複葉(小葉が左右に並び1枚の葉を構成)で、夕方に閉じる。樹高1-2m。
Photo_2 その花。開花期10-12月花径3cm位の黄色い5弁花。この花の最大の特徴2本の湾曲した雄しべであろう。ツノ兜に似る。中心部には1本の雌蕊があり、雄蕊の退化したものと思えるものが4-7本ある。日当たりを好み、半日蔭では花付きが悪い由。花後に出来る実は豆果(莢の中に種子が入る)である。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月21日 (火)

争乱の戦国史160(織豊Ⅲ22): 小田原攻め

 1589年11月、惣無事令に従わぬ北条氏に対し、秀吉は宣戦布告をした。だが、北条は現実の豊臣軍を知らず、かっての対上杉・武田戦を、籠城戦でこれを退けた経験から、1、2ヶ月籠城すれば、豊臣軍は撤退すると見ていた。豊臣軍の兵糧・武器弾薬の調達・補給能力を知らず、見くびっていた。従って、小田原の防備に最も力を入れ、西の国境線は足柄・山中・韮山の3条で固め、又上野の松井田城・武蔵の鉢形・忍・岩村・八王子城を始め、領内を堅固にしていた。

 一方秀吉軍は3方向から北条氏の本拠・小田原に向い侵攻を開始する。先ず北から上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの軍勢が上野や武蔵の北条方の拠点を次々と攻め落とした。
 秀吉率いる本隊1590年3月1日京都を発した。2月に先発していた家康とは伊豆の国境で合流。28日、秀吉は家康と共に、攻撃部署を三つに分け、韮山城には織田信雄を将とした軍が向かい、山中城には秀次らが向い、家康小田原に向い間道を進んだ。
F160 3月29日攻撃が開始され箱根の山中城は秀次らが敵将松田康長を討ちその日の内に陥れた。韮山城も北条氏規が守っていたが、信雄らが外郭を破った。4月1日秀吉は進んで、箱根山に陣し、秀吉武将・堀秀政や家康先鋒伊井直正らが北条兵を打ち破り、小田原城を包囲した。3日、秀吉は軍を小田原に進め、早雲寺に陣を定めたが、城の西南笠懸山に陣して城中を俯瞰できることを知り、秀吉は其処に「一夜城」で知られる石垣城を築き全軍を指揮することにした。籠城を決意した北条勢との長期戦に備えての包囲態勢を敷き、陣中での慰安も設けた。酒宴・遊舞も自由とし、陣中茶会も催した。
 尚、からは長宗我部元親、九鬼嘉隆らの水軍が進み、攻城軍への食料輸送海上封鎖等を担当した。秀吉軍総勢21万と言われる。
 一方小田原城方は、長囲の間、来る日も来る日も籠城継続か降伏かの議論を繰り返して結論が出なかった。所謂「小田原評定」である。氏直に決断力が無かったのもあるが、包囲軍がそういう状況をを作ったとも言われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月20日 (月)

柑橘類も豊作?  温州が色づく

 実りの秋の中で、柑橘類も豊作の様で目立つ。当地の民家の庭には柑橘類のいずれかは必ず植えてある。夏柑、小蜜柑、温州ミカン、金柑、レモンなど。多いのは矢張り夏柑とレモンが大概植えてある。夏柑は来年初夏の収穫だが、他の柑橘類もまだ夫々青い(濃緑)。季語も金柑が秋だが他は冬である。
 その中でそろそろ色づいて今月下旬ぐらいから、収穫となるのが、温州蜜柑。それで今回はその温州蜜柑を撮って来た。
Photo ウンシュウミカン(温州蜜柑)。蜜柑類で一番身近なのがこの蜜柑で「冬ミカン」あるいは「ミカン」と言えば温州。柑橘類の名産地・中国の浙江省の温州の事で、それに由来する名前。但し温州ミカンの原産地は日本で、不知火海沿岸で、鹿児島・出水郡長島が原産地とされる。中国から400年ほど前に伝わった柑橘の突然変異とされる。テレビを皆が食べられるので、アメリカ、カナダ、オーストラリアではTVorange(テレビオレンジ)呼ばれる由。
Photo_2 果実。今頃から色づき、11-2月が食べごろで、正月には欠かせない。但し保存は涼しい場所(3-8℃)が最適日持ちは11月頃で7-10日12月で2週間ぐらい。栄養成分ビタミンC、βクリプトキサンチン(蜜柑色素)、クエン酸、食物繊維等が豊富で、美肌効果、便秘改善、風邪・高血圧・動脈硬化・脳梗塞・心筋梗塞等の予防効果があり、厳寒時に最適である。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年10月18日 (土)

リニア着工認可    パンパスグラスが見頃

 国土交通大臣はリニア中央新幹線の工事着工を認可した。夢の超特急であり、鉄道ファンは期待に胸ふくらませているだろう。既定路線で進んでいる事ではあるが、総工費約9兆円と言う超巨大プロジェクトだ。波及効果10.7兆円とも言われ、経済効果も大きいと期待される
 ところが、スピードに絶対価値があった時代は過ぎた、と言う意見もある。通信技術の進歩で、出張などの移動が30年後には劇的に減少するという。唯でさえ、人口減少で生産年齢人口2050年には4割近く減少するとも。要するにリニアの需要予測は減少し、採算性にも問題がある。その上、南アルプス直下貫く工事の困難、廃土の処分、資金の問題etc.問題山積なのだ。も少し国会等での論議や国民への納得できる環境整備が必要だろう。
 昨日のススキに次いで、今日もその仲間シロガネヨシの穂が見頃なので紹介。
Photo シロガネヨシ(白銀葭)。英名のパンパスグラスの方が良く知られているかも。原産地は南米大陸の草原(パンパ)で、名もそれに由来。根本から密生する葉は細長く、イネ科でススキなどと同じく葉の縁が鋭い8-10月に垂直に立ち上がった茎に50-70㎝の花穂を付ける。雌雄異株。園芸用にプミラという矮性のものもある。明治中頃日本に渡来
Photo_2 その穂雄株の穂細長いのに対し、雌株(写真)は幅広く綿毛を持つ。色はややピンクがかった白銀色である。穂の色は紫のもあるという。切花で生け花の材料としてもつかわれるが、イネ科だから花粉アレルギーのある人は、部屋に飾るとクシャミが出る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月17日 (金)

秋深まり朝夕が寒い  ススキの見頃

 急に秋らしくなったが、朝の冷え込みが強く(12-14℃か?)、厚着しはじめたが、昼ごろからは又暑くなり着替える。しかし、天高しの表現通り、高層雲が少したなびく紺碧の空は気持ちのいい時期となった
 秋だから当然ススキと思い辺りを見回しても、住宅地では以前は多かったススキを殆ど見掛けなくなった。それでちょっと足を延ばし田舎の方に行けばさすがに彼方此方に見掛ける。ススキは自然に放置すれば他の植物に替り、減ってゆくのだそうだ。それでススキの草原を維持するには野焼きなどして、他の植物繁茂を阻止する必要があるそうだ。それで、昔はススキは人の生活上必要な、関わり深い植物だったので野焼きなどで維持したという。
Photo ススキ(芒、薄)。尾花とか萱、茅(カヤ)とも呼ばれる。有用植物の主要な一種。しっかりした地下茎をもち、多数の花茎を立てる。根出葉や稈(ワラ:茎のこと)から多数の葉を出す、この葉はケイ酸が多く、堅くて傷つけやすい。ススキはカヤと呼び、昔の屋根葺きに使ったり、家畜の餌などに多用した。だから月見にはお供えとして使う。この様に生活に関わり定期的に収穫するためカヤの草原は野焼きをして、他植物の侵入を防いだ
Photo_2 その穂(花イネ科であり、稲と同じような穂をだし花がはっきりしない。夏から秋にかけて茎の先端に十数本に分かれた花穂をつける。花穂は赤っぽいが、写真の様に種子(穎:エイカという)は白い毛が生えて穂全体が白っぽくなる同属の別種に水辺に生える綿毛が純白のオギ(荻)や堤防に良くあるやや大きめのトキワススキなど含めた総称で、ススキと言うこともある

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年10月16日 (木)

争乱の戦国史159(織豊Ⅲ21): 伊達政宗の台頭

 秀吉が西日本を制覇しつつある頃、東北伊達氏が台頭伊達氏は鎌倉時代から陸奥国伊達郡を本拠とし、伊達稙宗(タネムネ)(1488-1565)の時代に戦国大名としての基礎を築き、その子晴宗の時、居城を出羽国米沢城に移し、更にその子・輝宗が内政を整備しつつ周辺諸国への攻勢を強めていった。
 伊達政宗はこの輝宗の子として、1567年(永禄10)米沢城にて誕生。1577年(天正5)11歳にて元服藤次郎政宗と名乗り、2年後、13歳で三春城主の娘・愛姫(メゴヒメ)を正室に迎える。そして1581年(天正9)、15歳にて初陣を飾った。

 この頃、奥羽も群雄割拠の状態であったが、陸奥の伊達氏出羽の最上氏がその中心で、中でも伊達氏が稙宗以来、武略で領土拡張し近隣諸家と婚姻関係を結び、その範囲は常陸の佐竹氏、出羽の最上氏に及び次第に奥羽平定の状況にあった
 この時、政宗18歳になり1584年(天正12)の冬、輝宗は息子・政宗に家督を譲った。若すぎると辞退したが、家中は誰も異論なく、政宗の器量・実力を早くから認めていた。1585年8月(天正13)、岩城の領主・大内定綱が伊達氏に叛し、常陸・佐竹氏が大内支援に回り、蘆名・畠山諸氏もこれの応じたので、10月政宗がこれを討ち定綱を岩城の二本松に出奔させた。二本松の畠山義継は偽って伊達氏に下り、政宗父・輝宗にまみえ、輝宗を拉致した。これを追った政宗の軍兵が義継を高田で討ったが、この時輝宗も乱兵に討たれてしまった。 
F159 政宗は、畠山氏に対し弔い合戦を挑むが、義継の子・国王丸の要請で集まった常陸の佐竹義重、蘆名氏らの反伊達派軍勢3万と激戦になり、1万に満たない政宗は苦戦するが、内紛で佐竹軍が離脱し、九死に一生を得た(人取橋の戦い)。この翌年、政宗は畠山氏の二本松城を落としたが、周辺の戦国大名との戦いは続く。
 当時の奥州では、伊達氏と並ぶ勢力の会津の蘆名氏は、佐竹氏から迎えた養子の義弘が13歳で家督を継いだ。蘆名氏は古くからの重臣と佐竹氏から来た家臣の対立で家中がまとまらず、1589年(天正17)、政宗はこの隙を突いて蘆名氏を攻めた(摺上原の戦い)。この戦いで伊達軍の別働隊に動揺した蘆名軍は敗走し、滅亡した。この結果、政宗は東北南部を支配する大大名へと成長したのである

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月15日 (水)

秋日和となる  ピラカンサが色づき始めた

 ようやく秋らしい天候となり、天高く即ち高層雲が空に浮かび爽やかな日和と成ったので、久しぶりに歩いてきた。やはり実物が色づきはじめ、柿や温州、蜜柑、カリンなどが黄色くなり始めている
 その中で一際遠くからでも目立つのがこのピラカンサ。黄色から橙になり更に赤みを帯び始めている。
Photo ピラカンサ(Pyracantha)。ヨーロッパ東南部からアジヤにかけてが原産地。ピラカンサスともいう。ピラカンサはトキワサンザシ属の総称で、日本ではトキワサンザシ、タチバナモドキ、カザンデマリ3種類が多く栽培されている。写真はこの内のトキワサンザシと思われ、10月頃に赤い実をつけ、翌年1月頃までついている。ピラカンサは是を云うことが多い。基本的には赤実種と柿色種に分かれる。
Photo_2 その実。春に白い花を咲かせ、秋から冬にかけて赤-橙色の果実をつける。果実は重さで枝がしなるほど沢山付き、緑色の葉とのコントラストもよく、枝の伸びが良いので、庭木の他生垣や鉢植えなど用途はおおい。実が美味しくないせいか、小鳥が啄んでなくなる事はなく、又病気にも強い

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年10月14日 (火)

秋深まる  アメジストセージが鮮やか

 日本列島全体が大騒ぎの台風一過、すっかり晴れて秋晴れと思いきや、薄曇りの肌寒い朝となった。やはりひと雨ごとの寒さがやって来て、冬に近づく感じである。幸いにも山崩れや大水害などが無く、心配されたこれまでの被災地の再度の被害もなかったようである。
 もうこれで終りになって、後は稲や果物などの秋の収穫順調に進むよう祈るばかりである。
 秋の深まりと共に、今アメジストセージが色鮮やかに咲いている
Photo アメジストセージ(Amethyst sage)。サルビア属の花で、学名より、サルビア・レウカンサ、メキシカンブッシュセージなどとも呼ばれる。青紫色の花色から、紫水晶のアメジストの名がついた。日向でよく育ち、水を好む。摘芯すると伸びを止められ、脇芽が出て横に大きく出来る。暑さに強く、夏の終わりから秋にかけて花が咲く。冬は2節を残しカットして休ませる。
Photo_2 その花花期は9-11月。青紫色で綿に包まれたようなベルベット状の穂状花序(花茎に花が均等に付く)を斜めに出す。は花茎の下から順次先端へ蕾が付き、下方から順次花が咲く。写真の如く、柔らかいビロード状の萼に包まれその中から花が出て咲く。花色は白と紫色がある。雄しべは5本あるが、3本は退化し、雌しべは1本で先が2つに裂ける。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年10月13日 (月)

自然の脅威の認識と怖れを!  秋名菊満開

 今朝9時前鹿児島枕崎近辺に上陸した台風19号は鹿児島湾を通って宮崎を通過13時過ぎ現在海上へ出たが、四国室戸岬辺りに再上陸する可能性が危惧されている。気圧も若干上昇し風速も落ちて、勢力は弱まりつつあるが、大きな雨雲を従えての移動であり、今後の進路沿い、特に太平洋岸沿いにはかなりの雨を降らせ、、再びの大水害を起こす可能性を強めている。日本列島を縦断して東北辺りから太平洋に抜ける予報である。
 毎日のコラム「風知草」(山田孝男氏執筆)欄に「政府は防災立法、防災予算確保に熱心だが、大自然の猛威を法律とカネで阻むことは出来ない。人間自ら自然リスクを測り、生き延びるしかない。・・・。自然リスクの意識欠如が山岳遭難にも現れている云々」とある。先ずは自分の身は自分で守る意識を!。そして、人は自然を征服したり、コントロールできるなどと勘違いするな!怖れを持って対峙してほしい
 秋を彩る花、秋明菊が満開。花が少なくなってくる中、目立つ花である。
Photo シュウメイギク(秋名菊)。別名キブネギク(貴船菊)、京都の貴船に多い故の呼び名。他別名が多い。菊の仲間ではなく、アネモネのの仲間。本州から九州までの山野に自生。冬は茎葉は枯れて春芽を吹くまでは休眠する。明るい判日陰、湿り気の環境を好む。
Photo_2 その花。本来の花色は赤紫色で、花弁に見える蕚が色づき細長くなったもので20-30枚付く。だが、近年交配品種ではこのように白色で、花弁がふっくらした丸みのあるものが数少なく付き、蕚片も少ない。花色は白の他、濃~淡ピンク、紅など。和風庭園に似合い、茶花にも用いる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月12日 (日)

争乱の戦国史158(織豊Ⅲ20):北条氏へ最後通告

 戦国大名・北条氏は早雲から5代目の氏直になっていた。この間約100年、北条氏は奇襲と謀略を用い、巧みな外交戦略と卓越した民政により関東を支配した。4代氏政、5代氏直は、三河・徳川家康や奥州・伊達氏と同盟を結び、秀吉への対抗を目論んだが、天下の趨勢は秀吉に傾いていた。
 九州平定後の秀吉1586年5月(天正14)に上洛した上杉景勝や同年10月上洛の家康を使って、北条氏の平和帰属を画策した。家康は関東惣無事令による秀吉の停戦命令書を北条に取次ぎ、従うよう求めた。続いて秀吉は「関東・奥羽惣無事令」を大名・国人に発し、停戦、秀吉裁定による国分令の受託、上洛・出仕の三点を求めた。
F158jpg しかし、未だ北条氏は関白の領土裁判権を振りかざしての停戦命令に納得できず、真田昌幸の沼田領奪取に執着していた。だが秀吉は家康の上洛・臣従により信濃の真田・小笠原・木曽を所領安堵の上、家康に付属させてしまった。北条は同年末から国(北条領国)の非常時と認識し、秀吉との戦争も視野に入れ、城の修築・普請を進め給人・地侍・百姓の動員体制を強化していた。(北条氏菩提寺・早雲寺
 唯、北条に秀吉との和平を求める意志がなかったわけではない。秀吉の上洛命令に対し、上洛条件として家康の時と同程度の人質などの待遇を要求し、1588年8月(天正16)氏政の弟・氏規を上洛させた。秀吉は、北条が何事も秀吉に従うと言って来たので赦免し、やがて上使を遣わし、国分けを行うので皆も上洛せよとの意向を関東諸将に伝えた。

 秀吉は1589年(天正17)、沼田領の2/3は真田から北条に割譲し、相当分を家康から真田に渡すとの裁定案を示した。北条はこれをしぶしぶ受託し、年末の氏政上洛を誓った。7月裁定通りの引き渡しが行われた。ところが、その3ヶ月後、北条方が真田領である名胡桃城を奪い取ったのである
 この報を受けた秀吉は糾明の使者を送り、次いで11月24日付で、氏直に5ヶ条の朱印状を(宣戦布告状)を発し。「公儀を侮り上洛せず、・・・・勝手に狼藉を働き・・・・」から始まり、「勅命に逆らったものには誅伐を加えねばならぬ来年必ず出兵して首を刎ねる」と結んだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月11日 (土)

銀行振込時間拡大?  コスモス真盛り

 全国銀行協会が他行向けの振込時間の拡大案を検討している由。現在は平日午前8時半~午後3時半にシステムを稼働させていることは、御周知の通り。だが、金曜日振込が遅れると、次週月曜まで降り込めず、困った事はありませんか? 約1300の銀行・信用金庫が「データ通信システム」を通して振込処理をしているが、上記の様にネットショップや企業決済に遅れる不満があった
 唯単に振込時間延長だけならそう難しくないそうだが、土日振込を可能にすれば便利というものの、投資費用が膨らみ人員増も必要慎重論が多いとか。海外では英国・シンガポールの一部大手が24時間、365日振込システムを導入したが、クレジットカードなど決済も浸透し夜間利用は殆どないと言われている。政府の成長戦略にも24時間化があるが・・・
 今、コスモスが花盛りだが、何故か当地ではコスモス畑が無くなった。もうコスモス畑も多くなり飽きてしまったのだろうか。何れにしろ秋の花の代表だから、載せて置こう。
Photo コスモス(秋桜)。メキシコ原産。18世紀末スペイン・マドリード植物園に送られ、コスモスと名付けられた。星の綺麗な宇宙をcosmosといい、且つ、ギリシャ語で美しいをkosmosと言う事からの名。日本には明治20年頃渡来日当たりと水はけが良ければ良く育つ。コスモス園が観光資源とされる所以だ。
Photo_2 その花。花期7月下旬~12月上旬。早咲き種と遅咲き種がある。日が短くなると花芽を付ける短日植物である。花茎が10㎝にもなる大輪種もある。花色は白、ピンク、赤、黄など。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月10日 (金)

羅臼昆布の旨さの秘密  咲続けのマツバボタン

 

 羅臼昆布は何故旨い?と言う記事。羅臼町の有る知床半島とその沿岸地域は、2005年に世界自然遺産登録されたミネラル分豊富な海洋深層水が漁場を育み、昆布もその自然の恵みで育つ。昆布漁は7月中旬~8月下旬の1か月間。昆布は水洗い後、夏の強い陽射しに曝し、夜は小屋に取込み湿気を避ける。これを3日間繰り返すが、色と艶、旨みはこの時の乾燥具合に左右されるここまでは他産地と同じ
 羅臼ではこの乾燥昆布を更に夜露に晒し柔らかくし(「湿り」)、付着物を除きながら「巻き上げ」を行い、延ばした昆布をむしろに積み上げ、重しを載せる「庵蒸(アンジョウ)」を行い、天気の良い日に太陽に晒す「日入れ」を行うという、40工程を経ている。中でもこの庵蒸の繰り返しうまみが深くなる。やはり名産羅臼昆布は一朝一夕に出来るものではない
 さて、大型で強い台風19号は予報通り北上を続けているが、今日は爽やかな風もあるが26-7℃と暑い日になった。その中、晩夏を凌いだ松葉牡丹がまだ咲いてる。
Photo 上マツバボタン(松葉牡丹)。牡丹になぞらえての名。別名ホロビンソウ(不亡草)は、年々種が零れて新たな花が咲く故の名前。南米原産、南部に自然分布する。葉が多肉質で、高温と乾燥に対し非常に強い。依って別名ヒデリグサともいう。草丈15-25㎝と低く庭のグランドカバーともされる。
 
Photo_3 下その花。花期6-10月。花色は白、黄、赤、オレンジと多種。八重咲品種もある。写真は一重の大輪で赤紫色の一般的なもの。昼間だけ開き、短命で1~2日で萎むが、次々と新しい蕾が開く。花径は3-5㎝。雄しべに軽く触れると雌しべの方向に動く面白い性質があるという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月 9日 (木)

祝ノーベル物理学賞受賞!  咲続くタマスダレ

 ノーベル物理学賞が、赤崎、天野、中村三氏に贈られることになった。青色発光ダイオードの開発に功績があった。所謂LEDの内、赤、緑の実用化は進んでいたが、三原色の残り青がなかったのでいろんな色の発色が出来なかったが、これで3原色揃い、各種の色がでるので、安価な電力で世の中が随分と色づくであろう。
 そもそも発光ダイオード(LED)は半導体には電子が抜けた穴空きのP型と電子が余っているN型があり、重ねると電子はNからPへ移動する。そのエネルギーにより発光する。色はそのエネルギーの大きさによって決まるが、3原色の内青色を出す素材が見つからなかったが、上記三氏は研究の末、窒化ガリュウムを使って青色を出す半導体を開発された訳である。非常に高度な学問の世界ながら、実用化に貢献したノーベル賞と言う事で絶賛されている。
 皆既月食も終わり、愈々秋も深まるが、8月下旬からずっと咲いては消え、又咲くというタマスダレが、先日の雨でまたパッと咲いたので紹介。
Photo タマスダレ(玉簾)。に、に喩えての名前。属名からゼフィランサスと呼ぶこともある。西インド諸島から南米が原産地。日本には明治初期に渡来とされる。日本の風土に適合しており、半野生化の群落も出現している由。病害虫に強く(有害成分を含む故ともいわれる)、日当たりを好む。
Photo_2 その花。花期は8-10月。日が当たると咲黄、夕刻にとじて2-3日咲き続ける。雨の後にはワッと咲くところから、レインリリーともいう。地際から花茎を伸ばし、その先端に1輪の花を付ける。6枚の花びらは付根でくっ付き、筒状になっている。黄色の雄蕊6本に先端が白い雌しべがある。白い故清楚な感の花である。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年10月 8日 (水)

争乱の戦国史157(織豊Ⅲ19): 聚楽第行幸と北野大茶会

 1586年2月秀吉は京都内野に関白の政庁兼住居として聚楽第の造営を開始した。この地は平安京の大内裏跡地で、政庁・天皇居所跡に秀吉自身の政庁兼屋敷を作る事を意図した点が重要である。その敷地は東は大宮通り、西は浄福寺通り、南は出水通り、北は一条通りに及ぶ広大なもので、造営は全国各地から材木・建材を徴発。諸大名に普請が命じられ、敷地周囲に幅20間、深さ3間の大きな濠を巡らし、五層の天主を持つ城郭風の豪壮な邸宅が造営だれた。
 翌9月に完成すると、同13日秀吉は母・妻らを伴って正式に入居した。

 同年10月1日には京都北野天満宮の森で、九州より凱旋の7月末に自ら企画した大茶会を催した。1日から10日予定で、茶の湯が好きなものは町人・百姓でも、又日本は勿論、唐の者でも集めれと触れた。秀吉秘蔵の名物茶器を展示し、自ら茶を振舞った。8百余りの茶座敷が設けられ、茶頭・千利休ほか、津田宗久や今井宗久らの茶席を設け、籤で順番に茶を振舞わせた。
 しかし、、当初10日間の予定は、肥後一揆が激化したので、この日1日で終わった
F157 茶会で見せた武家と公家の交流・融合を更に大規模に行ったのが、聚楽第行幸でり、秀吉はそこで天皇・関白を頂点とした公武一統政権の成立を演出した。(は後陽成天皇行幸図:堺市博物館蔵)
 1588年4月10日(天正16)、後陽成天皇は聚楽第に行幸。秀吉は当日自ら御所に向き合えに行き、6千人の武士が警護する中、天皇家、親王、摂家、大納言家康・秀長、中納言秀次らが長い行列を組んだ。天皇らが聚楽第についても秀吉の行列はまだ御所に居たという。天皇を待たせたのは、実質に於いて自分が天皇より優位にあることを示す秀吉の計算であったとも言われる。
 天皇は聚楽第での歓待を喜び、3日間の予定を5日間に伸ばしている。
 二日目に、秀吉は諸大名に天皇への起請文を提出させた。それは秀吉の恩恵で殿上人となり、行幸に参加できたことを感謝し、禁裏・公家ららの知行を保証し、関白の命令に違背しないという3ヶ条からなり、天皇を使って自己への服従を誓わせたのだ。これに署名した29人すべて朝廷官位に編成され、彼等を起請文によって天皇・関白への奉仕者と位置付け、秀吉政権を名実ともに公武一統政権に仕立て上げたのである

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月 7日 (火)

台風一過、秋晴の好天気  丸葉露草が咲く

 

18号台風が足早に太平洋海上へ去ったが、東海地方から東北にかけての沿岸地域には強風と共に大雨をもたらし、各地に浸水、土砂崩れなどの爪痕を残した。御嶽山の降灰は水に濡れ、固まるという。そして更なる雨により地すべり的に土砂崩れを引き起こすと言われ、向後の状況如何によるが危険度は増すばかり。約5日後さらに強い19号がほぼ同じコースを通る予報である。2重、3重の被害無きことを祈るのみ。
 秋が深まりゆくに従い秋の草花が咲いている。今日も前回に続き、同じツユクサの仲間・マルバツユクサを紹介。
Photo マルバツユクサ(丸葉露草)。アジヤ、アフリカに自生し、世界中に帰化している。海岸に多いと言われたが、内陸にも群生している由。最近は暖地の果樹園で大量発生し問題となっている。種子で繁殖する1年草の雑草で道端、草地に生える。名の通り丸い葉で、ツユクサより大きく、花は露草より小さい
Photo_2 その花。花期7-10月。花茎2cm弱。青~淡青色で稀に白もある。花が終わると苞の中に果実が花の数だけ出来る(写真苞から出ている花)。果実には3-4㎝の大きな種と、2㎜位の小さい種が1-4個出来る。地上の花とは別に、地下に閉鎖花をつけ、この中に発芽力のある種子を形成し、その種子は寿命が長く長期に亘る発芽力を有する。これが、繁茂の原因でもある。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月 6日 (月)

又もや台風・18号  白雪姫が咲いてます

 広島の土石流、御嶽山等々、自然の猛威が残した爪痕が、未だ癒えてない矢先、今度は台風18号が接近し、今夕にも関東方面上陸の可能性が出ている。これもまた大雨をもたらす可能性が大きく、上記の災害地は申すに及ばず更なる災害の恐れ大である。5年前の18号が丁度同じコースを通り、大きな災害をもたらしただけに警戒感を強めているが、とりあえずは、前以ての避難が非常に大切な事をこれまでの経験が教えている。該当地域の方々の早めの避難を念ずる
 愈々本格的な秋になり、秋の花が咲いている。今日はその中で、毎年可愛い花を見せてく入れる、通称・白雪姫を紹介。
Photo シラユキヒメ(白雪姫)。花の咲いた姿から連想された呼び名である。正式にはトラディスカンティアシラモンタナという長い名前で、流通名ホワイトベルベット露草の仲間なので、花は紫露草などにソックリで、特徴は薄い綿毛があり、やさしい感じを与える。水を控えると節が短く鑑賞にはよい姿になる。
Photo_2 その花。露草の仲間で、ご覧の様にムラサキツユクサにそっくりの花。但し葉は全然異なる。花は夏頃より咲始め、朝と夕方に咲く。従って昼間の写真が撮りにくい。今頃は次々と咲き、沢山花を付けている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014年10月 2日 (木)

葉が無くなった?夏柑の樹

 柑橘類はまだ青く夏柑の実はそこそこ大きくなったが、温州蜜柑やレモン、金柑などはまだ大きくなりきっておらず青い。その夏蜜柑は当地では大概の家の庭に必ずと言っていい程植えられていて、葉も濃緑色で茂っている。夏柑の収穫来年5月
 ところが、写真の樹はごらんの通り殆ど葉が無くなっている。少し残っている葉を見る限り、虫に食われた様子もなく、元々この木には虫が付きにくい。然るに何故この樹には葉が無いのだろうか、不思議であり、珍しい光景だから撮って来た。これから果実に糖分など蓄えるためには葉が必要だから故意に落す訳もない台風の余波等で若干風の強い日もあったが、それが原因ならほかの家のも散ってしかるべきだが、周りには葉の落ちた樹はこれ以外にない。誠に珍妙な木の姿を紹介
Photo ナツカン(夏柑)。正式には夏蜜柑。江戸中期、黒潮に乗って南方から山口県仙崎の青海島に漂着して、文旦系の柑橘の種を西本於長蒔き育てたのが起源とされる。結果的に萩では多く栽培され、明治期に萩藩で職を失った武士が植え、救済措置として蜜柑栽培を行い、夏には貴重な柑橘類として広く栽培し、代々末永く続く様にと名前は夏代々と称した。
Photo_2 ナツカンの実。果実は生食で、グレープフルーツ同様、サラダにも用いる。又土産物としては外皮をそのまま生かして砂糖漬けやゼリー萩市の特産品になっている。果実は既に大きくなっているが来春色づいて黄色くなってもまだ酸っぱく、5月頃の初夏に食べ頃となる。
 お知らせ:明日より3日間当ブログの更新はお休みします。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年10月 1日 (水)

争乱の戦国史156(織豊Ⅲ18): 刀狩と海賊停止

 秀吉の全国統治システムで、検地による知行制の確立と共に欠かせなかったのが、生産の安定・確保を図る為の「刀狩令」であった。それは大名にだした「惣無事令」、海で活躍する民に出した「海賊停止令」と並んで秀吉の「平和令」の一つであった。
 九州を平定した1587年(天正15)、肥後で国人一揆が起きた。太閤検地によって有力農民の既得権が奪われることへの反発であった。中世の農民は武器を手に戦う半農半兵の存在であり、一揆を組んで大名を脅かす事もあった。九州の一揆も秀吉の九州支配を揺り動かし、北野大茶会も1日で中止せざるを得なかったのである。
 そこで秀吉は百姓の武器を没収することにより、農業に専念させて、一揆・反乱を未然に防ごうととしたのである。これにより、武士・町人・百姓の職業による身分固定化が起こり、兵農分離が実現した
F156 1588年7月8日(天正18)、秀吉は紀伊・和泉制圧過程での刀狩令を元に、全3ヶ条の刀狩令を諸国に発布した。図の通り長い文章だが、要約すると
第一条:諸国の百姓の武器所持を禁止する。持てば、年貢出し渋り一揆企て領主に反抗する。さすれば田畠不作となって年貢が散れなくなる。故に大名・給人代官は武器を集めて進上せよ。(この条は大名・領主にたいしたもので、実行させるための条。(刀狩令(大阪城天主閣蔵))
第二条:没収した刀・脇差等は無駄にせず方広寺大仏建立の釘やかすがいに使う。だから百姓は現世のみならず、来世も救われる。(この条百姓向けの目的の条)
第三条:百姓は農具だけ持って耕作に専念すれば子々孫々まで長久である。(この箇条は今後の百姓の有りていを説いている。

 刀狩と全く同じ日付けで、秀吉は三ヶ条からなる海賊禁止令を出した。
第一条では、諸国海上において、賊船の儀堅く御停止なさるる。とし、その理由を第二条で、諸国の浦々の船頭漁師ら船を使う者を領主が調べ、海賊行為をしないと誓約した連判状を出させ国主が集めて秀吉に提出せよ。とし、第三条で領主の油断で海賊する者がでれば海賊は秀吉が成敗し、領主は知行を没収すると罰則を定めた。
 即ち海上も秀吉の支配下であり、海上通航の安全保障と違反者処罰は関白の権限と言う方針を明示したのである。尚、これは朝鮮出兵に備えて船と船頭、水主(カコ)を把握する事と倭寇を取り締まり明との勘合貿易を復活する狙いが在ったと思われる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »