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2014年10月30日 (木)

争乱の戦国史162(織豊Ⅲ24): 北条氏直降伏

 北条氏は小田原城を20万余の豊臣軍に包囲されて、完璧な籠城態勢をを保ったが、3ヶ月近くになるに及んで、老臣・松田憲秀の内応に続き、下野の皆川広照も兵百余人を率いて小田原城を出て降伏など、精神的団結は崩壊し始め城中は互いに疑心暗鬼に状況となって、次第に和議へ傾き始めた
 他方、信濃・上野路を進んだ利家・景勝・真田昌湯幸らは上野松井田城を囲み、城将大道寺政繁を降し、上野諸城を落した後、武蔵鉢形城を囲んで1590年6月14日(天正18)これを落とし23日には武蔵八王子城も落とした。
162_2 6月24日、秀吉は黒田孝高(如水)らに小田原細田口守将・太田氏房のすすめで太田親子に和議を説かせ、又同日小田原・韮山を堅守した北条氏規にも家康の勧めで小田原に来て和議を説いた。そして最後の小田原評定が始まったが、26日、秀吉は石垣山の陣(一夜城)より、鉄砲を斉射、威嚇した。もはや評定は許されず、29日、氏直親子は織田信雄のもとに和議調停を依頼した。こうして1590年7月5日(天正18)天下一統を成し遂げんとする秀吉の前に、3ヶ月余り抵抗を続けた氏直も降伏することになったのである。
 そして、石田三成軍の3ヶ月余りに及ぶ水攻めを凌いで最後まで残った忍城(埼玉・行田市)は7月16日開城した。

 氏直は家康の娘婿という理由で、助命され高野山に追放。戦争責任は父・氏政、その弟氏照(八王子城主)と老臣大道寺政繁・松田憲秀に負わされ切腹させられた。首は京都に送られ一条戻橋に晒された。戦国大名・北条氏の滅亡である
 そして同時に、秀吉の天下統一が実質的に成就したのであった。秀吉は北条領を家康に与えて江戸に入れ、家康の旧領5ヵ国を収公した
 豊臣軍の戦争能力は北条の想定をはるかに超えていた。それを読み誤った不明と情報不足が命取りとなった。勝つ可能性はなかったのである。しかし、敗戦は北条の領国支配が古かったり矛盾を持っていたからではない。むしろある時期、信長や家康より体系的な支配体制築いていたと言われる。そうした地域権力に、秀吉は天皇と関白という中央の論理を以て屈服を迫った。北条はその論理に従属することを拒否したのであった。とする池上裕子氏の論がある。

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