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2014年10月25日 (土)

争乱の戦国史161(織豊Ⅲ23): 伊達政宗服従

 伊達政宗1589年(天正17)、秀吉の発した東北惣無事令に反し、会津の蘆安氏を滅ぼし会津領をほぼ手中に納め(摺上原の戦い)、奥州の66郡の内36郡に亘る広大な地域を支配する大大名に成長していた。
 ところが得意満面の1590年、小田原攻めを開始していた秀吉から、惣無事令に反し、私戦で奪った会津を返上して上洛謝罪せよと、小田原参陣を促してきた。同時に北条氏直からも密使が訪れどちらに就くか、態度を決する必要に迫られた。
161_5 浅野長政からも書が来て、もはや躊躇できず、政宗は止む無く秀吉帰属を決めた。が、小田原出発直前に母の保春院(山形城主・最上義明の妹)が、兄の最上義光と結託し、政宗の弟・小次郎擁立を画策している事が発覚。小田原参陣の前に家中統一を図り反対派粛清の必要が生じ、政宗は弟・小次郎を刺殺し、母を追放して政宗体制を確立してから小田原へと向かった1950年頃の伊達政宗の版図

 結果、小田原着陣6月5日と大幅に遅れたため、秀吉は怒り、底倉山中に留め置き、利家、長政らに政宗の非違を詰問させた。しかし、政宗は是によく陳弁したとの報で、秀吉は会津を没収するだけで70万石余の本領は安堵した。
 そして秀吉が政宗を引見したのは、小田原到着後の4日目の6月9日。家康・利家ら諸将が居並ぶなか、政宗は白の死装束で秀吉の前に出たといわれる。惣無事令違反を認め謝罪・服属の意志を表す形であったろうか。しかし、政宗は臆せず立派な態度で、秀吉も会津没収以外は、知行地領有は認め、奥羽支配のために有用な人物と認められたのである。
 尚、引見を終え退出しようとした時、秀吉は政宗を呼び止め、杖で小田原城を指攻城の方略を示した。政宗も忌憚なく輝くばかりの才知で、自分の意見を述べたので、並み居る人々の称賛をえたという。時に政宗、弱冠24歳であった。

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