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2014年10月21日 (火)

争乱の戦国史160(織豊Ⅲ22): 小田原攻め

 1589年11月、惣無事令に従わぬ北条氏に対し、秀吉は宣戦布告をした。だが、北条は現実の豊臣軍を知らず、かっての対上杉・武田戦を、籠城戦でこれを退けた経験から、1、2ヶ月籠城すれば、豊臣軍は撤退すると見ていた。豊臣軍の兵糧・武器弾薬の調達・補給能力を知らず、見くびっていた。従って、小田原の防備に最も力を入れ、西の国境線は足柄・山中・韮山の3条で固め、又上野の松井田城・武蔵の鉢形・忍・岩村・八王子城を始め、領内を堅固にしていた。

 一方秀吉軍は3方向から北条氏の本拠・小田原に向い侵攻を開始する。先ず北から上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの軍勢が上野や武蔵の北条方の拠点を次々と攻め落とした。
 秀吉率いる本隊1590年3月1日京都を発した。2月に先発していた家康とは伊豆の国境で合流。28日、秀吉は家康と共に、攻撃部署を三つに分け、韮山城には織田信雄を将とした軍が向かい、山中城には秀次らが向い、家康小田原に向い間道を進んだ。
F160 3月29日攻撃が開始され箱根の山中城は秀次らが敵将松田康長を討ちその日の内に陥れた。韮山城も北条氏規が守っていたが、信雄らが外郭を破った。4月1日秀吉は進んで、箱根山に陣し、秀吉武将・堀秀政や家康先鋒伊井直正らが北条兵を打ち破り、小田原城を包囲した。3日、秀吉は軍を小田原に進め、早雲寺に陣を定めたが、城の西南笠懸山に陣して城中を俯瞰できることを知り、秀吉は其処に「一夜城」で知られる石垣城を築き全軍を指揮することにした。籠城を決意した北条勢との長期戦に備えての包囲態勢を敷き、陣中での慰安も設けた。酒宴・遊舞も自由とし、陣中茶会も催した。
 尚、からは長宗我部元親、九鬼嘉隆らの水軍が進み、攻城軍への食料輸送海上封鎖等を担当した。秀吉軍総勢21万と言われる。
 一方小田原城方は、長囲の間、来る日も来る日も籠城継続か降伏かの議論を繰り返して結論が出なかった。所謂「小田原評定」である。氏直に決断力が無かったのもあるが、包囲軍がそういう状況をを作ったとも言われる。

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