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2014年10月16日 (木)

争乱の戦国史159(織豊Ⅲ21): 伊達政宗の台頭

 秀吉が西日本を制覇しつつある頃、東北伊達氏が台頭伊達氏は鎌倉時代から陸奥国伊達郡を本拠とし、伊達稙宗(タネムネ)(1488-1565)の時代に戦国大名としての基礎を築き、その子晴宗の時、居城を出羽国米沢城に移し、更にその子・輝宗が内政を整備しつつ周辺諸国への攻勢を強めていった。
 伊達政宗はこの輝宗の子として、1567年(永禄10)米沢城にて誕生。1577年(天正5)11歳にて元服藤次郎政宗と名乗り、2年後、13歳で三春城主の娘・愛姫(メゴヒメ)を正室に迎える。そして1581年(天正9)、15歳にて初陣を飾った。

 この頃、奥羽も群雄割拠の状態であったが、陸奥の伊達氏出羽の最上氏がその中心で、中でも伊達氏が稙宗以来、武略で領土拡張し近隣諸家と婚姻関係を結び、その範囲は常陸の佐竹氏、出羽の最上氏に及び次第に奥羽平定の状況にあった
 この時、政宗18歳になり1584年(天正12)の冬、輝宗は息子・政宗に家督を譲った。若すぎると辞退したが、家中は誰も異論なく、政宗の器量・実力を早くから認めていた。1585年8月(天正13)、岩城の領主・大内定綱が伊達氏に叛し、常陸・佐竹氏が大内支援に回り、蘆名・畠山諸氏もこれの応じたので、10月政宗がこれを討ち定綱を岩城の二本松に出奔させた。二本松の畠山義継は偽って伊達氏に下り、政宗父・輝宗にまみえ、輝宗を拉致した。これを追った政宗の軍兵が義継を高田で討ったが、この時輝宗も乱兵に討たれてしまった。 
F159 政宗は、畠山氏に対し弔い合戦を挑むが、義継の子・国王丸の要請で集まった常陸の佐竹義重、蘆名氏らの反伊達派軍勢3万と激戦になり、1万に満たない政宗は苦戦するが、内紛で佐竹軍が離脱し、九死に一生を得た(人取橋の戦い)。この翌年、政宗は畠山氏の二本松城を落としたが、周辺の戦国大名との戦いは続く。
 当時の奥州では、伊達氏と並ぶ勢力の会津の蘆名氏は、佐竹氏から迎えた養子の義弘が13歳で家督を継いだ。蘆名氏は古くからの重臣と佐竹氏から来た家臣の対立で家中がまとまらず、1589年(天正17)、政宗はこの隙を突いて蘆名氏を攻めた(摺上原の戦い)。この戦いで伊達軍の別働隊に動揺した蘆名軍は敗走し、滅亡した。この結果、政宗は東北南部を支配する大大名へと成長したのである

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