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2014年10月 8日 (水)

争乱の戦国史157(織豊Ⅲ19): 聚楽第行幸と北野大茶会

 1586年2月秀吉は京都内野に関白の政庁兼住居として聚楽第の造営を開始した。この地は平安京の大内裏跡地で、政庁・天皇居所跡に秀吉自身の政庁兼屋敷を作る事を意図した点が重要である。その敷地は東は大宮通り、西は浄福寺通り、南は出水通り、北は一条通りに及ぶ広大なもので、造営は全国各地から材木・建材を徴発。諸大名に普請が命じられ、敷地周囲に幅20間、深さ3間の大きな濠を巡らし、五層の天主を持つ城郭風の豪壮な邸宅が造営だれた。
 翌9月に完成すると、同13日秀吉は母・妻らを伴って正式に入居した。

 同年10月1日には京都北野天満宮の森で、九州より凱旋の7月末に自ら企画した大茶会を催した。1日から10日予定で、茶の湯が好きなものは町人・百姓でも、又日本は勿論、唐の者でも集めれと触れた。秀吉秘蔵の名物茶器を展示し、自ら茶を振舞った。8百余りの茶座敷が設けられ、茶頭・千利休ほか、津田宗久や今井宗久らの茶席を設け、籤で順番に茶を振舞わせた。
 しかし、、当初10日間の予定は、肥後一揆が激化したので、この日1日で終わった
F157 茶会で見せた武家と公家の交流・融合を更に大規模に行ったのが、聚楽第行幸でり、秀吉はそこで天皇・関白を頂点とした公武一統政権の成立を演出した。(は後陽成天皇行幸図:堺市博物館蔵)
 1588年4月10日(天正16)、後陽成天皇は聚楽第に行幸。秀吉は当日自ら御所に向き合えに行き、6千人の武士が警護する中、天皇家、親王、摂家、大納言家康・秀長、中納言秀次らが長い行列を組んだ。天皇らが聚楽第についても秀吉の行列はまだ御所に居たという。天皇を待たせたのは、実質に於いて自分が天皇より優位にあることを示す秀吉の計算であったとも言われる。
 天皇は聚楽第での歓待を喜び、3日間の予定を5日間に伸ばしている。
 二日目に、秀吉は諸大名に天皇への起請文を提出させた。それは秀吉の恩恵で殿上人となり、行幸に参加できたことを感謝し、禁裏・公家ららの知行を保証し、関白の命令に違背しないという3ヶ条からなり、天皇を使って自己への服従を誓わせたのだ。これに署名した29人すべて朝廷官位に編成され、彼等を起請文によって天皇・関白への奉仕者と位置付け、秀吉政権を名実ともに公武一統政権に仕立て上げたのである

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