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2014年9月27日 (土)

争乱の戦国史155(織豊Ⅲ17): 太閤検地

 豊臣秀吉が全国の統一支配を成し得た最大の要因「太閤検地」を実施し、全国から統一基準による徴税システムを作り上げたことにある。それまでの戦国大名によって行われた指出検地では、田畑の面積は農民の自己申告によっており、誤りや虚偽申告も含まれていた。更に「隠田」と呼ばれる未申告田畑も相当あった。又長さ重さの基準が地域により違って、正確な米生産力の把握は不可能であった。
 これに対して、秀吉の検地は統一政権の検地として非常に厳格なものであった。原則的には検地奉行が実際に現地に赴き、田畑を測量し、その生産力を米の量(石高)で換算する石高制を採用した点が大きな特徴である。この制度を以下箇条書きで簡明にすると以下の如くなる。
.田・畠・屋敷の面積を測る基準を統一:1間の長さ=6尺3寸とし、面積は1間四方=1歩、3百歩=1反とする。又30歩=1畝、10反=1町とする。
田畑の等級(国盛)と石高:田畑の1筆毎に上・中・下・下々の4等級とし、1反当りの斗代(基準生産量=石盛)を定め、面積を乗じて石高を算出する。
測り枡の統一:従来地域により異なっていた枡を、京枡図示の枡)に統一する。
1地1作人の原則:作職(耕作権)を持つ者のみ検地帳に登録し、年貢納入責任を負わせる。
村高を決める:村の境界を定め(村切)、村単位で検地を行い、検地帳を作成し、村の石高を定める。検地帳は百姓に写させ、記載内容を承諾した請状を出させる。
 年貢高は通常、村高を基準に、何割何分という年貢率を乗じて、村に対し納入が請求される。村役人は村の年貢高分を整えて納入する。これが年貢の村請である。
F155 こうして定まった村高を元に秀吉は大名や家臣に知行(所領)を宛がう。そしてそれを元にや諸大名の負担する軍役が定められた。この様に、同じ基準で軍役をかけることが出来、大名の家格や序列の統一的な体系を創出でき、大名をどこにでも転封させること出来た。それは又、各大名領で大名と家臣の間でも行われる。この様な制度を作ることで、豊臣政権に入る税は増え、秀吉は巨大な経済力を得て、統一政権は超越的で専制的な権力となる事が出来たのである
 但し、秀吉の検地は1582年(天正10)、山城の検地から始まり、1598年(慶長3)まで掛っており、その間に制度化も進んでいったのである。奥州平定後の1590年(天正18)の陸奥・奥州の検地では、検地奉行・浅野長政に与えた指示には「検地に反抗する首謀者は国人であろうと農民であろうとなで切りにせよ」いう厳しいものであったっという。太閤検地に反抗する首謀者は処刑し、首は塩漬けにして都へ送られるという凄惨を極めたのであ」った。 秀吉の石高制による知行制江戸幕府にも引き継がれて、近代の支配の仕組みとなり、その土台は太閤検地であり、画期的った。

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