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2014年9月19日 (金)

争乱の戦国史153(織豊Ⅲ15): 博多直轄

 1587年6月7日(天正15)、秀吉は九州討伐を終え、肥後から筑前博多に凱旋し、箱崎八幡宮を本陣として九州征伐の論功行賞を終えたのである。
 秀吉は博多に20日余り滞在し、先ず6月11日博多の町再興令を発している。博多はかって在家10万軒と言われ、堺に劣らぬ富豪も多かったが、龍造寺氏と大友氏との十余年に及ぶ戦乱に荒廃してしまった。それを秀吉は復興を図り、長束正家・小西行長ら5人を奉行に下奉行を30人配し、黒田孝高を総奉行の体制をもって着手した。所謂「太閤町割」が行われ、町域十町4方を縦横の少路で割、7つの「流(ナガレ)」にまとめた。この流れは現在でも、博多祇園山笠には生きており「流」単位で舁山笠が設置される。南側には南側には横幅20間余の濠を造り、富商を本町に集めた。
F153_2 その富商の中では、極めて積極的に協力したのは、博多商人の重鎮、神谷宗湛島井宗室であった。宗室は高利貸金融業者であった。秀吉はこの二人とは箱崎松原での茶亭でも深い交わりを持った。秀吉にとって、殊に宗湛は博多商人で名家出身で朝鮮ともつながりが深く、茶の湯を学び、僧籍を得ており、ブレーンとして好都合な人物であった。(神谷宗湛像

 秀吉が博多惹かれ、且つ重視したのは、その歴史的・文化的風格にもあるが、昔からの日中貿易の拠点として、今後の大陸との交易の促進を考えていたと思われる。南蛮との交易もあるが、それは堺や長崎が中心であるので、博多は特に大唐・明との交易である
 博多再興を命じたのは3日後、6月15日対馬の宗義調(ヨシシゲ)に朝鮮国王の服属来朝を取り計らうように命じ、応じなければ即時出兵すべきことを告げさせた。歴史的に見て、朝鮮が日本と明の間で果たした役割を考え、朝鮮を通じて明への橋渡しを考えていたものと見られている。

 しかし、それと同時に、秀吉は天下一統が進捗するにつれ、天下の範囲を次第に拡大させる傾向を見せはじめ、日本の天下が遂に三国(本朝・唐・天竺)が天下だと考え始めたのではないかと言われる。即ち九州征伐のこの段階が、秀吉の「天下意識」の拡大した時期であり、新しい天下の拠点はもはや大阪ではなく博多でさえあると。博多復興にはそれだけの意味が背景になっていた

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