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2014年9月13日 (土)

争乱の戦国史152(織豊Ⅲ14): 秀吉、九州出兵

 豊後における四国大名勢の島津対戦での惨敗に、秀吉大いに憤怒し、1586年12月1日(天正14)を以て、5畿内、北陸5国、南海、中国、江州、尾州、伊勢、伊賀、志摩等37国兵を徴し翌1587年正月(天正14)に遠征軍を編成、兵力25万正月25日先陣宇喜多秀家が出発、次いで弟・秀長初め諸将が征途に就き、3月1日佐々成政浅野長政等諸将を率いて、秀吉が出発した。3月28日豊前小倉城に至って、部署を定め、秀長・秀家らを豊後より日向へ、自ら筑前・肥後へと2手に分かれて南下した。秀吉の来征に、島津に下った諸城は動揺著しく、暫時退却するより方法無く、豊後府内にあった島津義弘・家久らは3月15日には軍を納め延岡に退き19日には家久らは佐土原に帰り義弘は翌日都於(西都市)で家久に合流。
 秀長の軍は秀吉軍より早く南下し、4月6日県城(延岡)主を降し、秀長軍の黒田長政は高鍋の財部を攻めて下した。更に島津の将が守る日高城を包囲し、根白城を占拠し義久来襲に備えた。そこへ義久の前軍が襲撃したので、秀長、藤堂高虎らが赴援して島津の大軍を打ち破ったこの戦で島津氏もようやく講和を考えた決定的な敗戦となった。一方筑前、筑後路の秀吉は羽柴秀勝、前田利家、蒲生氏郷らを率い先ず4月1日秋月を攻め、浅野長政を頼って下った。豊前・英彦山衆徒も下って、立花、龍造寺、鍋島ら相次いで来謁する有様。山鹿を越え、4月16日には熊本城に入ったが抵抗なく、合志城守将も退いて、19日には八代に陣した。
F152 秀吉は一向衆・本願寺光佐を同道していたので、薩摩の門徒の導きで薩摩出水に入り、ここの領主島津忠永も下った。秀吉は川内川を上り泰平寺に陣した。鹿児島へ13里の地である。これを聞いて、義久は諸将と会し去就を協議、遂に降伏したのである
 秀長に伊集院忠棟を人質とし降伏を申し入れ、鹿児島に帰陣した。しkし、川内方面で平佐城主・桂忠眆(タダアキ)が城を固守して屈せず、義久が諭して遂に下った。(既に前以て、秀長の意向を受けて、水面下で足利義昭や木食応其が義久に和平・降伏を進めていたと言われる)。図:征討進軍路
 5月3日、秀吉は秀長から義久降伏を聞きこれを許し、5月6日、義久剃髪して伊集院に赴き謹慎の意を示し、8日泰平寺で秀吉に拝謁し、無条件降伏したのである。
 秀吉は6月7日、筑前筥崎宮で国分けを行い、島津薩摩・大隅・日向を、対馬を安堵したほか、小早川隆景を筑前に、黒田孝高を豊前に、佐々成政を肥後に配置した。尚、日向を大友宗麟に、豊後を大友義統に、大隅を長宗我部元親に与えたが、宗麟と元親は受封を辞退した

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