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2014年9月 9日 (火)

争乱の戦国史151(織豊Ⅲ13):家康の臣従

 小牧・長久手の役(1584年)後、秀吉河内を直轄領とし、摂津は近臣に分封。五畿内に弟・秀長(紀伊・大和・和泉)、前田玄以(山城・京都奉行)、羽柴秀勝(丹波)、豊臣秀次(八幡山城)、堀尾吉晴〔近江)、堀秀政(越前北の庄)らを外構えとして配した。
 そして、秀吉は京都・角倉家や奉行を石田三成とした堺・今井宗久、津田宗及らを通じ、軍需産業、外国貿易と繋がって、秀吉の圧倒的な経済力が定着した。

 一方徳川家康は甲斐・武田氏亡き後、甲斐・信濃に勢力拡大を図り、北条、上杉らと対立し、北条氏とは和議が成立したが領土交換が出来てなかった。北条氏直との交戦では、信州上田城を本拠とする真田昌幸が家康方について、多くの犠牲を払って上野沼田城を奪取した。これを家康が北条に返還するよう命じたが、これは父子伝来の真田領だとの意識が強く断ったため、争いとなり、昌幸上田城に籠
 1585年8月(天正13)、家康は大軍で上田城を囲み攻撃したが、昌幸は頑強に抵抗した上で、秀吉に救援を求めた為秀吉は上杉景勝に真田救援を命じた。結局、徳川軍は上田城攻略ならず敗れ去り、昌幸は次男・幸村人質として送り、秀吉に臣従した。
 この直後の11月、徳川の重臣・石川数正が岡崎城を出奔し妻子・一族をつれて秀吉の元に奔った。この出奔の理由は各説あるが、真相は不明である
F151 このような事態で、家康と秀吉の関係は緊張が続いた。秀吉の再三の上洛要請家康は応じず1586年(天正14)に秀吉は、既に結婚していた妹・朝日姫を離婚させ、正室を喪っていた家康に、嫁がせる。それでも従わぬ家康に、母の大政所を人質として岡崎に送り、家康も根負けして、10月24日入京26日に秀長屋敷に入った。そこへ秀吉が出向き、会見承諾の礼を述べた。(家康臣従の図(秀吉清正記念会館蔵))
 翌日、大阪城において諸大名居並ぶ前で家康は秀吉に対し、臣下の礼を採り、和解が成立したことを表明したのである。

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