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2014年9月 5日 (金)

争乱の戦国史150(織豊Ⅲ12): 島津氏、九州征圧

 大友氏耳川の戦い1578年)で没落、勢力を伸ばした肥前の龍造寺隆信1584年(天正12)、島津家の傘下に入った有馬晴信を攻撃した。少数の兵で救援に駆け付けた島津家久は、得意の「釣り野伏」で龍造寺軍を破り、隆信を討ち取る戦果を挙げた(沖田畷の戦い)。
 その後、大友領へ侵攻を続けた島津義久ら四兄弟は、本国豊後まで危なくなった大友宗麟の要請で、九州の調停に乗り出した豊臣秀吉を無視し、九州統一まであと一歩に迫った。即ち1584年10月2日(天正13)、秀吉は抗争を続ける島津氏と九州諸大名らに対して、関白として勅諚を伝えるという形で停戦命令を発したのである。
F150 そして、これは天皇の意向だから、従わないものは成敗すると伝えている。即ち九州全域の領土の裁量権は、天皇から委託された自分にあると言っている。は秀吉の停戦令
 これが、日本六十余州の支配権を持つ天皇から、関白である自分がその実際の支配権を委託されているという”関白像”を明確にしたものである。

 島津氏1585年10月(天正14)、秀吉の勧告を無視して豊後に侵攻。宗麟は臼杵城に籠ってこれに対抗。一方島津の動きに怒った秀吉は仙石秀久・長宗我部元親・十河存保(マサヤス)ら四国の大名大友氏救援を命じた。
 12月に入ると、島津勢は大友氏の本拠・府内に近い鶴賀城攻略に着手し、これを包囲。対して豊臣勢も鶴賀城の救援に向い、城の北を流れる戸次川を挟んで対峙した。
 秀吉は仙石ら先発軍に対して、自分が出馬するまで持久戦に持ち込み、島津の足止めをするよう命じていた。しかし、仙石は決戦を主張し、自重を求める長宗我部らの反対を押し切ったのである。
 12月12日、仙石・長宗我部・十河・大友連合軍は戸次川を渡って島津勢に襲い掛かる。島津勢は一旦退却すると見せかけ突如反転。不意を突かれた連合軍は総崩れとなり十河・長宗我部元親の嫡男らを喪う大敗となったのである。
 この「戸次川の戦い」の大敗を受けて、秀吉は翌年25万の大軍による九州征討戦を起す

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