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2014年9月 1日 (月)

争乱の戦国史149(織豊Ⅲ11): 関白就任と惣無事令

 1582年着工し、1585年略完成した天下を目指す権力の象徴・大阪城と共に、秀吉が欲しのは天下人に相応しい官位であった。山崎合戦(1582年)後、10月に従五位下・左近衛権少将に叙任、1585年3月(天正13)には正二位・内大臣に上る。しかし、秀吉が欲したのは武家の棟梁・征夷大将軍だった。が、源氏にしか叙任されないくらいであり、仕方なく壇ノ浦に落ちていた源氏棟梁・足利義昭の猶子になろうとしたが、義昭に断られた
 そこで秀吉は、朝廷の最高位である関白となる事を考える。当時関白職には二条昭実で、次期関白は近衛言尹の予定だったが、昭実が譲らず確執が続いていた隙を突き、懇意の右大臣今出川晴季に秀吉を推薦させた。関白職になるため藤原姓の必要があったため、先の関白近衛前久の猶子となり藤原秀吉となる。こうして秀吉は1585年7月11日、正式に関白に就任した。
F149 このやり方にはさすがに批判もあったので、秀吉は関白と成れる源氏・平氏・藤原氏・橘氏の四氏姓と並ぶ新しい姓・豊臣朝廷から賜り関白就任正当化する。こうして「豊臣」姓を朝廷に奏請。9月9日朝廷より姓を賜り、豊臣秀吉となったのである。(:天皇勅旨をを伝える略式関白任命書)。
 次いで、必要であったのが政治形態である。秀吉は関白家政所の家政機関として奉行制度を組織し、筆頭奉行に浅野長政を充て、前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家の5奉行制を敷き。過渡的ながら中央政府の任務を負わせた

 こうして関白として天皇に代り国政を行う立場に立った秀吉が先ず行ったのは、その地位を利用して、全国の戦国大名に「惣無事令」と呼ばれる私戦禁止令を発令した。無事とは講和とか和解を意味し、戦国大名の領土境界の紛争や合戦は、公儀(中央政府)である豊臣政権の裁定に委ねられることになり、その裁定に従わなければ、公儀として制圧の対象とするものである。即ち、各地の紛争は羽柴家と他の大名家との紛争から、一段高い国の立場から、全国の紛争に介入し、制圧する立場へと大きく転換したのである。
 これは大名の紛争だけでなく、社会全般の平和を示すものとして拡大解釈され、村落の山林や用水紛争の停止、海上の海賊行為の禁止、更には後の刀狩など、豊臣政権に拠る全国統一政策の貫徹を為し得る寄り処となったのである

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