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2014年8月28日 (木)

争乱の戦国史148(織豊Ⅲ10): 四国統一

 伊予を除く四国内の3国と淡路の守護、名門・細川氏を倒した三好長慶四国勢力を受け継いでいた。しかし、次第に国人たちによる勢力争いも激しくなり、その中で長宗我部が台頭してくる。長宗我部家は16世紀に滅亡したが、元親の父・国親の死により家督を継いだ元親の父・国親再興する。1560年(永禄3)、父・国親の死により家督を継いだ元親は、当主となって半農半兵の兵士・「一領具足」(一揃いの具足しか持たぬ半農の兵)を活用して、宿敵・安芸国虎、名門・一条兼定らを倒し、土佐を統一した。
 当初、元親は信長との関係も良好だったが、阿波に進出した頃、この地域を支配していた三好家が信長傘下に入って、信長に敵対する関係となる。信長が四国征討を始めようとした時、本能寺の変が起こり、元親は窮地を脱した
 そして1582年(天正10)元親は中富川の戦いで、三好一族の十河存保(マサヤス)を破ると、その勢いで引き続き阿波、讃岐、伊予と支配領域を広げて行き、1585年、3年がかりで遂に四国統一を成し遂げたのである。
F148 1583年(天正11)には、仙石秀久の率いる羽柴軍が讃岐の十河存保救援に来たが、元親はこれを撃退。この頃、、秀吉根来・雑賀一揆を鎮圧した(1585年)が、その一部が四国に逃げ込み、秀吉は元親を討つべく兵を四国に送り込んだ
 この時秀吉は病気となり、弟・秀長を総大将として、宇喜多秀家の軍勢と小早川隆景率いる毛利軍を加え総勢11万の軍勢が図示の如く、3方向から攻め込んだ。
 これに対し、長宗我部軍は約4万の兵力。各地の城に兵を配置し、元親は四国の要衝・阿波の白地城に入った。圧倒的な兵力差で長宗我部軍は次第に圧倒され、各地から敗戦の報が元親の白地城に入る。

 この中で長宗我部軍の敗北を決定的にしたのは阿波一宮城の攻防戦だった。羽柴秀長の軍勢は難攻不落の城攻めを避け、城への水路を断つ作戦を取った。水路を断たれた長宗我部軍に対し、秀長が城主に元親との和議を求めた。これを受け、白地城城主は元親に対し、和睦勧告の受け入れ進言。一度は拒否したものの、抗しきれず、8月6日講和が成立土佐一国を安堵されて3男・親忠を人質として和睦した。3年がかりでの統一も、2ヶ月で秀吉にとって代わられたのである

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