« 「8月豪雨」を教訓に  紫紺野牡丹が咲く | トップページ | 天候不順でも花は咲く 花蔓草 »

2014年8月24日 (日)

争乱の戦国史147(織豊Ⅲ09): 小牧・長久手の戦い

 羽柴秀吉は、賤ヶ嶽の戦いで柴田勝家に勝利した翌1584年(天正12年)、建築中の大阪城諸大名を招待し、信長後継者たる力を誇示した。が、これに反発したのが、信長次男・織田信勝である。
 秀吉の下につくのを嫌い、秀吉と断交して、信長の同盟者であった徳川家康を味方につけた。一方の家康も急拡大する秀吉勢力に、歯止めを掛けようとする意図から、信雄を旗印として、実質は家康が秀吉に挑戦したのがこの戦いである
 越後・上杉景勝、中国・毛利輝元らは秀吉に勝利祝いの使者を送り、事実上臣従を表明している中、独り徳川家康のみが、秀吉独走を阻むべく、甲斐・武田の遺臣を召し抱えるなど軍事力強化に努め、信雄と連携し秀吉との対決に備えていた。
F147 1584年3月(天正12)、信雄は秀吉に近い自身の家老を誅殺し、織田政権継承を実現せんとして家康協力を求め兵を起こした。これを受け、3月15日家康は尾張の小牧山に布陣し、森長可と戦いこれを退けた
この知らせに、大阪にあった秀吉もすぐに出兵し、3月28日楽田(現犬山市)に本陣を置き、約2万の信雄・家康連合軍に、約10万の軍勢で対峙した。秀吉は小牧山周囲に砦を築き敵軍を包囲したが、家康が四国の長宗我部や本願寺の顕如らと連携していたため、秀吉は迂闊に動けず、膠着状態に入った

 4月に入り、膠着状態が続く中で、秀吉方武将・池田恒興が、家康本領の三河攻撃を提案した。秀吉はこの作戦に反対したが、家康に敗れ挽回を期す森長可や秀吉甥の秀次らも同調したので、4月6日に秀次を総大将に約2万の兵を三河に向けた。この情報は7日、家康が察知。8日夜秘かに小牧山を出て、翌9日秀次軍を長久手に襲った。この戦闘で池田恒興と森長可討死し、秀次軍は約2千5百の死者を出し敗走。この敗北を機に、秀吉は信雄領地を攻めた上で、秘かに単独の講和を持ちかけた。秀吉の諫言に乗せられた信雄はこの年11月、家康に無断で秀吉と講和してしまった。この結果、助っ人の家康には戦う大義名分がなくなった為、止む無く次男・秀康を養子として送り込み、秀吉と和睦した。
 小牧・長久手の戦いの後も、家康は秀吉に臣従はしなかった。しかもこの時期、家康は秀吉に対抗するために、関東の北条家と同盟を結んだために、秀吉は東方に大きな脅威を残すことになる

|

« 「8月豪雨」を教訓に  紫紺野牡丹が咲く | トップページ | 天候不順でも花は咲く 花蔓草 »

戦国時代」カテゴリの記事

コメント

最後の文章”秀吉は東方に大きな脅威を残すことになる”でしょうね。

投稿: 自遊人 | 2014年8月25日 (月) 20時33分

自遊人さんへ、誤字の指摘有難うございました。

投稿: 山猿 | 2014年8月26日 (火) 09時06分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/60200766

この記事へのトラックバック一覧です: 争乱の戦国史147(織豊Ⅲ09): 小牧・長久手の戦い:

« 「8月豪雨」を教訓に  紫紺野牡丹が咲く | トップページ | 天候不順でも花は咲く 花蔓草 »